語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち【第34回】朽木英次(若狭農林高→日本体育大→トヨタ自動車) ラグビーの魅力に…

語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第34回】朽木英次
(若狭農林高→日本体育大→トヨタ自動車)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載34回目は、1980年代後半から1990年代にかけて名を馳せたCTB朽木英次(くつき・えいじ)を紹介する。高校時代は決して有名な選手ではなかったが、日本体育大→トヨタ自動車で大きく成長し、平尾誠二とのCTBコンビで日本代表を牽引したミッドフィルダーだった。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

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朽木英次/1962年12月25日生まれ、福井県高浜町出身

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 日本代表・往年の名CTBを挙げるならば、「ミスターラグビー」平尾誠二や「鉄人」元木由記雄の名前は、新旧の幅広いファン層からまず出てくるだろう。一方、オールドファンに聞けば、必ず「朽木英次」の名前がリストに入ってくるはずだ。

 身長173cmで体重74kg。現代ラグビーに限らず、CTBとしての体躯は小さいほうだった。しかし、スピードを生かして間合いを詰める力強いタックルと、スペースに針の穴を通すような正確なパスで、1980年代後半から1990年代にかけて日本ラグビー界で一時代を築いた。

 そして朽木といえば、大一番にめっぽう強い選手だった。

 思い出すのは、1987年の第1回ラグビーワールドカップ。予選プール1試合目のアメリカ戦で朽木はプレースキックを任されたが、簡単な位置からのキックを外して敗因を作ってしまった。さらに2試合目のイングランド戦はまったく歯が立たず、7-60と大敗してしまう。

 このままでは日本に帰れない──。気合いを入れて臨んだ予選プール最後の相手は、今大会の優勝候補オーストラリア。圧倒的な実力差だけに、歴史的な大敗も予想された。

【ワールドカップ通算4トライ】

 しかし、日本代表は1戦目、2戦目と見違えるようなプレーを見せる。朽木も「ラグビーキャリアのなかでターニングポイントになった」と振り返るほど、中身の濃い試合となった。

 前半12分、まずはラインアウトからFW陣が前に出てBKに展開すると、スピードを生かした朽木が相手守備網を突破して中央右にトライ。さらに前半24分にもWTBノフォムリ・タウモエフォラウをフォローし、朽木が再びトライを挙げた。

 後半も相手エースWTBデイヴィッド・キャンピージにタックルをお見舞いするなど、朽木は最後まですばらしい闘志を見せた。試合は23-42で敗れたものの、世界の強豪と戦える姿を示すことができた。

 大一番での活躍によって、朽木は日本代表に欠かせぬCTBとして定着する。1989年5月28日には「宿澤ジャパン」の一員として平尾とCTBコンビを組み、スコットランドを28-24で倒す歴史的快挙にも大きく寄与した。

 1990年のワールドカップ予選でも活躍した朽木は、1991年ワールドカップのスコッドにも選ばれる。日本待望のワールドカップ初勝利となったジンバブエ戦(52-8)でも、朽木は大舞台での強さを発揮して2トライを奪った。

 なお、朽木が挙げたワールドカップ通算4トライは、2019年にWTB松島幸太朗(6トライ)に抜かれるまで20年以上にわたって日本代表の最多トライ記録だった。

 日本屈指のCTBは1962年、福井県高浜町で3兄弟の長男として誕生。ふたりの弟・泰博(元・トヨタ自動車)と雅文(現・若狭東高ラグビー部監督)もラグビー選手として活躍し、地元では「朽木3兄弟」としてよく知られていた。

 ラグビーを始めたのは若狭農林高(現・若狭東高)の入学後から。高校3年時には「花園」全国ラグビー大会に出場し、福井県勢として初のベスト16進出を果たした。しかし全国的に見れば、まだ朽木は無名選手だった。

【新日鉄釜石の8連覇を阻止】

 福井出身で有名なラガーマンといえば、元日本代表FLにして伏見工業(現・京都工学院)を全国制覇に導いた名将・山口良治監督がいる。その彼も歩んだ日本体育大に同じく進学した朽木は、大学2年時にSOへコンバートすると、その才能を一気に開花させた。

 ハーフ団のなかで突出した瞬発力を武器に、大学3年時には関東大学ラグビー対抗戦で優勝。さらには大学選手権でも日体大を牽引し、チームを準優勝に導く。高校時代は無名だった朽木の名は関係者の間でも知れ渡るようになり、大学卒業後はトヨタ自動車に入社することになった。

 トヨタ自動車でも朽木は、SOのポジションで高い評価を得る。若くして主力メンバーに抜擢され、1985年度の全国社会人大会では新日鉄釜石の8連覇を阻止して優勝。さらに翌年の1986年度も連覇を果たし、日本選手権では大東文化大を下し頂点をつかみ取った。

 日本代表の初キャップを獲得したのは、1985年10月のフランス戦。朽木は10番を背負ってピッチに立った。結果はフランスの「フレンチフレア(シャンパンラグビー)」に圧倒されて0-50という大敗を喫するも、朽木の正確なパスと強烈なタックルは日本にとって新たな武器となっていく。

 朽木がCTBとして起用されるようになったのは、1986年のアメリカ・カナダ遠征から。背番号は10番から13番に変わった。

 そして6月7日に行なわれたカナダ戦。13番の朽木は12番の平尾と組んで勝利(26-21)に大きく貢献し、それ以降、彼らのCTBコンビは代表に欠かせぬパーツとなった。

 1996年、朽木は現役を引退、ブーツを脱ぐとすぐに日本代表のテクニカルスタッフとなり、1999年のワールドカップ・ウェールズ大会ではピッチの外から日本代表をサポートした。さらに2003年から2007年までトヨタ自動車の監督を務め、トップリーグの昇格や日本選手権で準優勝に導く手腕も発揮する。

 現在もトヨタ自動車で働きつつ、日本ラグビー協会のスタッフなどを務め、ラグビーの強化・普及に努めている。メディアに多く露出するタイプの性格ではなかったが、ラグビーファンは決して忘れることのない「玄人受け」するCTBだった。