最後までブレずに、己の指針を貫いた三浦。「レジェンド監督」として招聘された男を接近たちはどう見ていたのか(C)萩原孝弘最…

最後までブレずに、己の指針を貫いた三浦。「レジェンド監督」として招聘された男を接近たちはどう見ていたのか(C)萩原孝弘

最後までブレなかった“ワンチーム至上主義”の5年間

「自分が監督としてやることは“結束”です」

 監督就任時の会見で、いの一番にそう宣言した三浦大輔。監督としての5年間、「力を合わせれば大きな、強い組織になると確信した。選手だけではなく、コーチ、スタッフ、一軍、ファーム関係なくひとつのチームとして結束を固めて戦えるように」の指針は、最後までブレることはなかった。

【動画】横浜が揺れた筒香の豪快弾! 三浦大輔体制の熱狂シーンを見る

 横浜一筋のフランチャイズプレーヤーである三浦は、ベイスターズにとって自ら輝き続ける『恒星』。その求心力はバラバラになった元チームメイトやファン、選手たちを惑星のように再び呼び寄せ、強くたくましいコスモを形成。“結束”を深めていくことに尽力した。

 一見すると強面で、「番長」の異名を取る男だが、実際は和を重んじるリーダーとしての、まさしく理想像だった。

 現役時代からバッテリーを組み、「三浦監督を男にしたい」という理念を持って入閣した相川亮二ディフェンスチーフコーチは、ともに戦った4年間を「本当に苦しんでいましたね」と吐露。監督業の苦悩するレジェンドの姿に思いを馳せながら「クライマックスシリーズ(CS)に行って走り続け、日本シリーズでも優勝。嬉しかったですね」と頂点まで駆け上がった24年の歓喜の瞬間を今でも鮮明に記憶している。

 一方、指揮官としての三浦はこれまで目にしてきた監督像とは違った。「形をしっかりと示していくのが今まで見てきた監督たちでしたが、(三浦は)そうではなかったですね」と、“ニュースタイル”の監督だったと証言する。

「自分たちコーチや選手の主体性をすごく尊重してくれて。それだけではなくスタッフさんたちにも、とにかくどうしたらやりやすい環境になるのか、勝てる環境になるのかを模索して、ほんとうにいろいろやって下さっていましたね」

 また、三浦監督とともにアナリストとしてベンチ入りし、24年から一軍オフェンスコーチとして攻撃面をサポートした靏岡賢二郎コーチも「トップダウンではなく、横のつながりを大切にしてやられていました」と同じ目線に立って指揮を執る三浦の姿を告白する。

「今までの野球界って、監督が一番偉くて発言権がある。コーチでも意見を出せなかったりといったところも僕は見てきました」と旧態依然の監督もいたと証言する靏岡コーチは、三浦が柔軟なリーダーであったと明かす。

「三浦監督はそういう立ち位置ではなく、アナリストの意見も、もちろんコーチの意見も聞いてくれますし、時には選手の意見も聞きながら、フットワークも軽く常に現場目線でしたね。ミーティングでも試合中でも、誰が上とかないように接してくれました」

 自身がアナリストだった時、靏岡コーチは「意見があったらどんどん言ってきてくれといってもらえていました。ただどこまでいっていいのかという線引きが難しいんです。言い過ぎると采配批判にもつながりますし」と悩みを抱えたこともあった。

 しかし、三浦はここでも気遣いを見せていた。「でも、『そういうことは気にするな』と常に言っていただきましたので、やりがいにもつながりました」と語る靏岡コーチには、人としての器の大きさと、勝利のためにあらゆるツールを駆使していく姿が脳裏に刻まれている。

「それは僕だけではなくて、他のコーチやスタッフさんもやりやすかったはずですよ。僕はコーチ2年目ですけれども、かなり助けていただきました。感謝しかないです」

 緊張感漂う勝負の世界で、上下関係なしに誰もが力を発揮できるための舞台を作ってくれた指揮官に頭を垂れた。

ファンからも信頼を集めた三浦の放った輝きは、最後まで眩かった(C)萩原孝弘

信じるこころが産む一体感。追い求めた「野球」とは

 現役時代から「やられたら、やり返す」を心の中に持ち続ける三浦の原点は、指揮官になっても表現され続け、自然と選手にも植え付けられていった。

「選手には普段から『ミスをしても切り替えなさい』と言われてましたね」と回想する靏岡コーチも「ミスしたからあいつは次の試合もダメだということはなく、また次の試合にもチャンスを与えていました。そういうメッセージを選手に込めながら、信じるときには一貫してその打順や守備に据え続けていましたね。信念のある方だなと近くで見ながら感じていました」と語る。

 三浦はアマチュアとは違い、何度も難敵と対戦する機会があるプロで生き抜く心得を、指揮を通じて落とし込んでいった。そうした姿勢があったからこそ、敗戦時には「自分の責任」と背負い続け、決して選手のせいにはしなかったことも頷ける。

 ただし、辞任を決めた最大理由である、『リーグ優勝の目標には届かなかった』という事実は消えない。「やはり最後は監督がジャッジしますからね。負けたらやり玉になることはありますね」とそこの部分にはコーチ陣も異論はない。

 ただ、常にフレキシブルな形で最善策を探り続けたことは事実と、側近は言葉を紡いだ

「内部にしかわからない選手の怪我の具合や、ポジションの関連性もありました。そこで歯車が狂いそうになったところで、耐えながら勝ちに対しての執着を持って、かなりフットワーク軽く対応していただいていました」

 三浦が指揮官として求め続けた野球とは、選手、コーチ、スタッフが100%のパフォーマンスを発揮しやすいステージを用意し、ベクトルを一致させる。そして勝ち負けの責任を自ら負って、集約した叡智を基に起用した選手を信頼する。そこに集約されるのではないか。

 343勝342敗30引き分け。チームだけでなく横浜の街をも結束させた“番長”の放った輝きは、最後まで眩しかった。

[取材・文/萩原孝弘]

【関連記事】叡智を持つコーチ陣も驚いた“謎の球速アップ” 2度の指名漏れも経験したドラ1がCS進出の救世主となった理由【DeNA】

【関連記事】「内部昇格の公算が大きい」DeNA次期監督問題で浮上する「3人の名前」を球界OBが考察 「2軍の選手も把握しといてくれよということで…」

【関連記事】「イップスではないと思います」首脳陣が説く藤浪晋太郎の“制球難克服計画” DeNAはいかに怪腕を再起させるのか?【独占】