語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち【第32回】桜庭吉彦(秋田工高→新日鉄釜石) ラグビーの魅力に一度でもハマると…
語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第32回】桜庭吉彦
(秋田工高→新日鉄釜石)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。
連載32回目は、秋田工業高校から高卒で新日鉄釜石に入団し、3度のラグビーワールドカップ出場を果たした「鉄人」LO桜庭吉彦を紹介する。14年間にわたる代表活動で出場した試合は100以上。引退後も釜石のラグビーを象徴するひとりであり続けるレジェンドだ。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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桜庭吉彦/1966年9月22日生まれ、秋田県潟上市出身
photo by AFLO
「東北のリアル・ロック」と言えば、歴代最多98キャップを誇る福島県出身の大野均と、そしてもうひとり思い出す選手がいる。秋田県出身で43キャップの桜庭吉彦だ。
桜庭が活躍した1980年代当時、日本代表の年間テストマッチ数は5試合前後。しかし、海外遠征では非テストマッチの試合も多く組まれていた。
そのため、桜庭の43キャップは実際のところ、その倍近くの価値がある。セットプレーではチームメイトを引っ張り、接点では外国人相手に真っ向勝負でファイトし続けた。
空中戦はもちろんのこと、誰よりもきつい仕事でも黙々とこなし、チームで最も勇敢で力強いLOに対し、人は敬意を込めて「リアル・ロック」と呼ぶ。まさに桜庭は、ラグビー人気絶頂期の日本代表を象徴するリアル・ロックだった。
1986年10月、海外遠征に招集された桜庭は、20歳の若さでスコットランド戦に先発して初キャップを獲得する。当時のメンバーのなかでは、神戸製鋼のLO林敏之とLO大八木淳史に次ぐ若きタレントだった。
【32歳で3度目のワールドカップへ】
桜庭は勢いそのままに1987年、ニュージーランドとオーストラリアで共催された第1回ワールドカップに出場。完全アウェーながら23-42と善戦したオーストラリア戦にも先発した。
「第1回大会は、まだ海外遠征の延長線のような、牧歌的な雰囲気があった。本大会への予選もなく、日本代表は招待で出場しました。ただ、『ラグビーの世界一を決める初めての大会』という高揚感はありましたね」
しかし4年後の1991年、宿澤広朗監督の率いるワールドカップメンバーに、桜庭の名前はなかった。
「自分に力がなかったということだと思います。林さん、大八木さんを超えるために、自分なりに何ができるかを考えました」
落選した悔しさを糧に、4年間を鍛え直した結果、桜庭は再び桜のジャージーに袖を通すことになる。そして1995年、第3回ワールドカップへ。しかしこの大会では、ニュージーランドに17-145という歴史的大敗をピッチで経験することになる。
「非常に悔しかった。ただ、個人的に選手生活を振り返ると、一番成長したのが1995年から1999年までだと思います。あの1995年の悔しさがあったから、世界の舞台でもう一度自分を試したいというモチベーションが湧き、ラグビーへの向き合い方を大きく変化させた」
そして第4回ウェールズ大会が開催された1999年、桜庭は平尾ジャパンで2番目に高齢の32歳で3度目のワールドカップへ。白星こそ得られなかったが、2試合に出場する。
大舞台を終えてすべてを出しきった桜庭は、代表生活にピリオドを打った。
14年にわたって日本代表を支え続けた桜庭は、ラグビーファンから「鉄人」と讃えられる。生まれは秋田県潟上市。小さい頃から野球をやっており、長身を生かした投手だったという。同郷の山田久志や落合博満に憧れ、高校は落合の母校・秋田工業に進学した。
球は速かった。ただ、コントロールに難があった。ラグビー部の監督に「お前は野球よりラグビーのほうが向いている」と誘われたことをきっかけに、桜庭は高校2年時に野球からラグビーにシフトする。
【松尾雄治に誘われて高卒で入団】
「楕円球の大きなボールのほうが合っていた」
ラグビー競技に転向した早々、桜庭はそう感じたという。実際、その年末には全国高校ラグビー大会「花園」に出場するまでに成長し、高校3年時は中心選手として全国優勝を果たした。ちなみに2学年下の1年生には、のちに日本屈指の名WTBと称される吉田義人がいた。
身長190cmを超えていた桜庭は、当然ながら関東の大学から熱視線を受けていた。しかし、高校卒業後に選んだのは新日鉄釜石。大学には進学せず、憧れていた東北のチームに入部した。秋田工の先輩に声をかけられたことや、「ミスターラグビー」ことSO松尾雄治が桜庭に直接会いに来て「一緒にやらないか?」と誘われたことが決め手となったという。
高校3年時、桜庭は国立競技場で新日鉄釜石のV7(日本選手権7連覇)を目の当たりにした。1985年4月に入部した時に松尾は引退していたが、桜庭は「松尾さんに誘われたことで新日鉄釜石に入ることができたし、日本代表になれた」と今でも感謝している。
高卒で新日鉄釜石に加入した桜庭にとって、V7を知る先輩たちの壁を越えるのは容易ではなかった。しかし、伝統のチームで先輩FWに揉まれてコツコツと努力を続けたことで、桜庭は日本を代表するLOへと成長を遂げていく。その結果が3度のワールドカップ出場だ。
桜のジャージーを14年間守り抜いたあとも、桜庭は新日鉄釜石に欠かせぬ精神的支柱として活躍する。しかしながら2001年、長らく続く鉄鋼業界の不況によって新日鉄釜石はクラブ化し、釜石シーウェイブス(現・日本製鉄釜石シーウェイブス)となった。
桜庭はその年に現役を退き、2002年からヘッドコーチに就任。そして2003-04シーズンには、かつての名門チームを19年ぶりに日本選手権まで導いた。
【東北・釜石を象徴するラガーマン】
さらに驚くべきは、2005年の39歳に一念発起して、コーチ兼任として現役復帰を果たしたことだ。「選手と一緒に汗を流して楽しかった。でも、自分のイメージどおりに体は動かないし、体力も回復しなかったですね」と苦笑する。
その後はクラブのアンバサダーやGMを歴任。2019年にはワールドカップ日本大会のアンバサダーを務め、釜石鵜住居復興スタジアムでのワールドカップ開催にも大きく尽力した。
東北、そして釜石を象徴するラガーマン──桜庭吉彦は愛する土地、愛するチームで熱い情熱を胸に、今も後進の指導にあたっている。