サッカーは日々、進化している。プレーはもちろん、スタジアムなど取り巻く環境も変化し続けている。だが、だからと言って、過…

 サッカーは日々、進化している。プレーはもちろん、スタジアムなど取り巻く環境も変化し続けている。だが、だからと言って、過去は決して捨て去っていいいものではない。蹴球放浪家・後藤健生は、ロシアW杯で日本戦が行われたスタジアムに「フットボールの精神」を見た!

■改築される「明治神宮外苑」で残すべきもの

「蹴球放浪記」の第159回でご紹介したように、モスクワでは過去の鉄道の記憶を残すための素晴らしい鉄道博物館を見学しましたし、それ以外にも今ではもう使われなくなった古い駅舎がいくつもちゃんと保存されていました。

 日本でも、スタジアムを改築するときにも、このようにスタジアムの過去の記憶を大切にしてほしいものです。

 旧国立競技場時代にメインスタンド中央に掲げられていた長谷川路可画伯作成の壁画が、現在はバックスタンド・コンコースに保存されていますが、もっと旧スタジアムの記憶をあちこちに残してほしかったものです。

 明治神宮外苑ではこれから野球場(明治神宮野球場)とラグビー場(秩父宮ラグビー場)が改築されますが、たとえば野球場の外周の連続アーチなどはデザインとしてぜひ残しておいてほしいものです。

 先日、U-20ワールドカップを見ていたら、サンチャゴのエスタディオ・ナシオナルに「過去の記憶を持たない民族に未来はない」といった言葉が書かれていました。今の日本のスポーツの繁栄は、過去の選手や指導者たちの努力があってのものです。スポーツ界は、もっと過去の記憶に向き合うべきだと思います。

■日本の志士たちも尊敬した「ロシアの名君」

 ところで、「エカテリンブルク」という都市名はロマノフ王朝のエカテリーナ1世にちなんだものです(「ブルク」は都市という意味)。エカテリーナ1世は、有名なピョートル大帝の妃でピョートルの死後に夫の後を追って即位した女帝です(在位約4年)。

 ピョートルは、西欧をモデルとしてロシアを近代化させたことで有名な名君です。西欧に学ぶために西欧に大使節団を派遣し、自らも身分を隠してその使節団に参加し、オランダでは大工となって造船技術を学んだそうです。ピョートルのそうした行跡は、幕末日本の知識人の間でもよく知られており、改革、近代化を目指す志士たちの尊敬を集めていたといいます。

 こうして18世紀の前半、ピョートルとエカテリーナの時代にロシアは近代化を始めたのです。そして、やはり18世紀の初めに工業都市として誕生したのがエカテリンブルクだったというわけです。

 ウラル地方の地下資源と市内を流れるイセチ川の水力を利用して工業化は始まりました。市内には、こうした工業化を記念した博物館などもありますし、当時の繁栄を映し出す資本家たちの屋敷も残っています。

■保存された「古いスタジアムの外壁」の意味

 エカテリンブルクは、また、古くからサッカーが盛んな街でした。それはつまり、工場労働者がサッカーという新しいスポーツを好んだからでした。

 だいたい、ヨーロッパ大陸の国々では古くからの伝統を尊ぶ“保守主義者”はフットボールを「英国生まれの遊び」と見なして嫌い、その国固有のスポーツを好むものです。

 たとえばドイツなどもそうで、伝統主義者たちが反対する中でフットボールに取り組んだのは若い学生や労働者。そして、近代的な企業を立ち上げた資本家も労働者たちのフットボールを支援しました。ユダヤ系の人たちも活躍します。

 ロシアでも同じ。近代的な工場を建設した新進気鋭の資本家や労働者がフットボールに熱心でした。近代工業を発展させた資本家の中にはロシア正教会の「古儀式派」に属する人が多く、彼らは西欧のプロテスタントと同じく勤勉さを大切にしていたのだといいます。

 近代工業が発展し、そうした若い資本家や労働者が集まっていたからこそ、この街にフットボールは根づいたのです。

 あの保存された古いスタジアムの外壁は、そんなエカテリンブルクの歴史を忘れないようにという意味だったのでしょう。

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