元ロッテ清水氏が語る社会人時代 ロッテなどで13年間プレーした清水直行氏は日大時代、肩の怪我で東都リーグではわずか4試合…
元ロッテ清水氏が語る社会人時代
ロッテなどで13年間プレーした清水直行氏は日大時代、肩の怪我で東都リーグではわずか4試合の出場に終わった。大学卒業と同時に野球をやめようと考えていたが、社会人野球の強豪・東芝府中から声が掛かった。
「監督の仲村恒一さんが、『こいつはモノになる。プロに行かせます』と会社を説得してくれたそうです。大学1年の春にしか投げてない選手を獲ってどうするんだって言われたらしいんですけどね」。同期はそうそうたる顔ぶれだった。後に日本代表にも入り、東芝の監督も務めた平馬淳氏、常総学院から東洋大に進み投手として活躍した倉則彦氏、亜大で活躍した捕手の安田真範氏らが在籍していた。
「1学年上の代には後に阪神に行く部坂俊之さんや、日大でも先輩で後に同じ年のドラフトでロッテに一緒に行くことになった戸部浩さんもいました。さらに大先輩には落合博満さんもいらっしゃいますし、ロッテの先輩でもある初芝清さんもいる。そんな名門に、それまでほとんど実績のない僕が入ってしまったんです」
入社1年目はほとんどの期間をリハビリに費やした。「データ班やビデオ撮影の係をしつつ、リハビリや治療をしっかりとやらせてもらえました。なかなかハードで、体力的にもきつかったです」。清水氏にとって幸運だったのは、トレーナーがいて、専門のコーチも揃っていたことだった。「僕が在籍した頃の大学は、トレーニングや体のケアの方法がまだ確立していませんでした。まだそういう時代だったので、仕方ないですよね。社会人ではトレーニングの重要さや体のケアの大切さを知りました。ここで初めて、効率的なトレーニングやリハビリを学んだんです」。
ノウハウがあったことで肩の状態は改善され、忘れかけていた投げ方も思い出した頃に、先輩の部坂氏が阪神のドラフト指名を受けた。チームメートがプロ入りしたのはこれが初めて。「寮の隣の隣くらいの部屋にいた選手がプロに行くというのは、すごく衝撃的でした。プロはどこか遠いものだと思っていたし、どうやったら行けるのかもわからなかった」。
「へっさん」と親しみを込めて呼んでいた1学年上の同僚がプロへ。「もちろん、東芝府中の時のへっさんは、めちゃくちゃすごかったです。でも自分も頑張って、同格とは言わないまでも近い実力を持つようになれば、プロもあるのかな、と思うようになりましたね」。それまでは遠い存在だったプロの世界が、急に近くに感じられるようになった。
痛感したセパの違い「いきなり巨人のすごさを目の当たりに」
社会人2年目の1999年、都市対抗のメンバー入りし、2回戦で先発。しかし、チームは敗れ、休部することが決まっていた東芝府中野球部の最後の敗戦投手となった。休部後は東芝野球部に合流することになっていた。
同年のドラフトでは、清水氏がロッテを逆指名、戸部氏も3巡目、元々東芝所属だった高橋尚成氏が巨人の逆指名1位で入団した。結果的に東芝野球部から3投手がプロ入りしたが、これを問題視する向きが、社内にあった。
「プロに行くのは年に2人まで、という暗黙のルールがあったんです。3人は問題だと。やっぱり企業チームも勝たなきゃいけないし、投手ばかり3人も抜けたら困りますよね」。しかし、ここでも東芝府中の元監督である仲村氏が動いてくれた。「戸部と清水はたまたま休部があったから東芝に合流したけど、もともとは東芝府中だと。東芝府中としては2人じゃないか、と交渉してくれました」。
こうして3人同時にプロ入りすることが会社にも認められ、清水氏と戸部氏はロッテでもチームメートに。一方の高橋尚成氏は巨人の”ドラ1”である。「いきなり巨人のすごさを目の当たりにしました。尚成のほうはカメラも記者もものすごい数で、記者会見も盛り上がっていました。僕たちの方は数えられるほど。ジャイアンツのドラフト1位とパリーグの扱いの差を実感しましたね」。
「大学時代と同様、社会人でもコントロールは悪かったです」と振り返るが、いよいよプロの舞台に足を踏み入れた。
※1ページ目の原稿を10月19日午前9時5分に差し替えました。お詫びして訂正いたします。(伊村弘真 / Hiromasa Imura)