学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざまな部活動の楽しさや面白…
学校での部活を取り巻く環境が変化し、部員数減少も課題と言われる現在の日本社会。それでも、さまざまな部活動の楽しさや面白さは、今も昔も変わらない。
この連載では、学生時代に部活に打ち込んだトップアスリートや著名人に、部活の思い出、部活を通して得たこと、そして、今に生きていることを聞く──。部活やろうぜ!
連載「部活やろうぜ!」
【ラグビー】堀江翔太インタビュー前編(全3回)

堀江翔太はバスケでも才能を開花させたのだが......
photo by Shiga Yuka
王座奪還、名門復活へ──。リーグワンの強豪・埼玉パナソニックワイルドナイツの新任FW(フォワード)コーチとして強化の責任を負うことになったレジェンドは、取材で訪れた日もFWの選手に助言し、練習後にはBK(バックス)の選手と軽快なランパスで汗を流していた。
堀江翔太。
ラグビーワールドカップ4大会連続出場を果たし、2015年大会では優勝候補・南アフリカとの一戦で歴史的勝利、2019年大会では代表初の決勝トーナメント進出──。数々の偉業を成し遂げた、偉大な元日本代表HOだ。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
日本ラグビー史にその名を刻んだ堀江は、コーチになっても現役時代と変わらず自然体で練習に臨んでいた。しかしその顔は、勝負の荒波に揉まれていた2年前よりも、いくらか柔らかくなっているように見えた。コーチ就任をチームに強く求められたという人柄、人望も、表情や所作からにじみ出ていた。
FWコーチとしてのキャリアをスタートさせてから1週間あまりというタイミングとあって、インタビューの最初は自ずとその話題になった。
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「プレーヤーだった時も選手にアドバイスはしてたんで、今はその量が増えたっていう感じですね。コーチやからこれやらなあかん、というか、僕ができる最大限のことをやってます。僕の今までの経験、ラグビー観をそのまま教えるだけですが、普通のコーチではなかなか教えられないようなことを、選手と一緒にやりながら教えてます」
主にスクラムの指導を「自由にやらせてもらってます」と笑う堀江が幼少期に最初に触れたスポーツは、実はラグビーではない。まずはその部活「前史」から聞いていった。
「幼稚園からサッカーを初めて、小4まで続けたんです。もともとFWやったんですけど、正式にポジションを決める時にキーパーだけどうしても決まらなくて。話が進まなかったらしょうがないんで『僕がやる』って嫌々キーパーになったんですけど、好きでもないことをやりすぎたのか、合わなかった。『ちょっとちゃうな』って感じたんです」
【陽キャはみんなバスケ部】
おりしもJリーグが産声を上げたばかり。サッカー人気真っ盛りの時代だったが、堀江はあっさりとサッカーを辞める。すると、体形に変化が出始めた。
「何もしなくなって、でも食べるだけ食べるんで、どんどん太ってきたんです。心配した母が『絶対にスポーツしたほうがいいよ』って言うので、母の友だちの娘さんが行っていた吹田ラグビースクールに入ることになりました」
運動不足の解消が目的で小5から始めたラグビーは、小4で辞めたサッカーとは対照的に、たちまちのめり込んでいった。
「もともと『動けるデブ』やったんですよね。『長距離走は遅かったけど短距離は速く走れる』みたいなタイプで、体重は75kgくらい。身長は170cmあったかどうかというころに、ラグビーがどんなもんかも知らないで始めたんですけど、体が断トツでデカかったんで、周りの子を吹っ飛ばして走れたし、それで気持ちよくなってハマりました。ポジションは体格の関係でPRをやらされましたけど」
吹田市立千里新田小学校から吹田市立南千里中学校に進学しても、ラグビースクールには通い続けた。ただ、中学にはラグビー部がなく、堀江はバスケットボール部に入ることにした。
「友だちに誘われたんです。当時は『陽キャがみんなバスケ部に行く』みたいな感じで見てたんですけど、友だちが入るって言うから、みんなで入ったんです。
本当は中学生になってもラグビーを(スクールで)真剣にやりたいから、学校の部活はしないと決めてたんですけど、吹田ラグビースクールの週1回の練習じゃ運動量が全然足りんくて、ラグビー部に入るつもりの高校までにうまくなれへんな、と思ってバスケ部に入りました。ただ、友だちは結局みんな辞めて、僕だけが残りましたけど(笑)」
バスケットボール未経験者だけに、入部当初はまともな練習ができなかった。また、水を飲むことも許されなかった。
「うまいヤツやレギュラーは体育館で練習して、僕ら下の部員は体育館の外でフットワークをずっとやらされていました。当時、水を飲みながら練習していたら先生に怒られて、罰として走らされましたね」
【異名は「南千里中の堀江」】
中1まではなかなか評価されなかったが、やがてラグビーで培ったコンタクトの強さ、運動能力を発揮していく。
「ラグビー、めっちゃ生きましたね。(バスケのポジションは)センターをやっていて、とりあえずコンタクトは怖くなかったです。身長はそんなに高くなかったですけど、体の当て具合でリバウンドも取れたんで。中2、中3ぐらいには、ちゃんとしたメンバーになってました」
初めは厳しく指導された堀江も、最終学年のころにはのびのびとプレーするようになった。
「中3の時にバスケ専門の平山先生という方が監督になって、そこで基本をめっちゃ教わりました。背面パスやノールックパスとかも、平山先生は許してくれましたね。負けそうな試合でも平山先生が選手を集めてホワイトボードを使いながら『こうしましょう』と言ったら、一気に勝ったりしていました」
めきめきと頭角を現し、やがて「南千里中の堀江」の異名を取るようになったという。
「なんか知れ渡ってました(笑)。ちなみにバスケットボール元日本代表の竹内ツインズ(竹内公輔・譲次兄弟)と同じ地区やったんです。僕は彼らの1個下なんであんまり接点はなかったですけど、一緒にやったことはあります」
こうしてバスケットボールの才能を一気に開花させた堀江だが、心のなかには常にラグビーがあった。
「周りから『高校、どこ行くねん?』って言われて、高校ではラグビーやるんでって答えたら、『ええ!? もったいない』ってよく言われてました。私立高校からも『推薦で来ないか』って言われていたんです。それだけはちょっと自慢しておきたいです(笑)。
こうして大人になって、いざ教える立場になると『ああ、そこそこの選手やったんやな』って思いますね。ただ、もし最初にバスケを始めていたら、そのままバスケをやっていたでしょうね。(ラグビーと)紙一重でした」
ラグビーとバスケットボールに出会う順番が逆だったら、今の堀江翔太はなかったかもしれない。だが、それほど情熱を注いだバスケットボールを辞めて、高校ではラグビーに本格復帰するという当初からの決意は、なぜ最後まで揺るがなかったのか。
【バスケやっててよかった】
「やっぱり、コンタクトプレーがあるラグビーがおもしろいからですね。自分の体に合っていたっていうのもありますし、バスケで(推薦等の)話があっても高校はラグビーっていうのは変わらなかったです。
もちろんバスケは好きで、ラグビースクールとバスケ部で試合日がかぶったら、バスケを優先していました。でも、天秤にかけると両方楽しいですけど、やっぱりラグビーのほうがおもしろいなって思ってました」
バスケットボールの経験は、その後のラグビーキャリアにも大いに生きたという。
「ハンドリングは、ラグビーよりもバスケで培いました。背面パスとかノールックパスもラグビーに生かせましたし、(コートやグラウンド)全体を見る意識なんかもそうですね。
たとえばノールックパスって、一瞬(選手の配置を)見るんですよ。ボールを持ってない時に味方の配置を頭に入れておいて、トップにおって前を見ながら『味方はあの位置にいるやろな』とか『こう動いてるやろな』っていうのを頭のなかで描く。その経験はラグビーにもだいぶ生きましたね。つくづく『バスケやっててよかった』って思います」
ラグビーの経験がバスケットボールに生き、バスケットボールの経験がのちにラグビーに生きる。そのサイクルを推進力に変えて、堀江は高校から再び楕円球の道へと進む。
(つづく/文中敬称略)
「キックがうまいのは私立をあきらめ公立に進学したから」
【profile】
堀江翔太(ほりえ・しょうた)
1986年1月21日、大阪府吹田市生まれ。島本高→帝京大を経て三洋電機(現・埼玉パナソニックワイルドナイツ)へ。トップリーグとリーグワンでMVP通算3度受賞。日本人FWとして初のスーパーラグビープレーヤー(レベルズ、サンウルブズ)となる。ワールドカップに4度出場し、日本代表76キャップでキャプテンも務める。2023-24シーズン終了後に現役引退。2025-26シーズンよりワイルドナイツのFWコーチ。ポジション=HO。180cm、105kg。