(4日、徳島県高校野球秋季大会準決勝 阿南光7―1海部) 1964年春の甲子園大会で、初出場で初優勝を果たしたチームがあ…
(4日、徳島県高校野球秋季大会準決勝 阿南光7―1海部)
1964年春の甲子園大会で、初出場で初優勝を果たしたチームがあった。
徳島県南部、高知との県境近くにあった海南だ。のちにプロゴルファー「ジャンボ尾崎」として有名になる尾崎正司(将司)らを擁し、旋風を起こした。
あれから61年。海南は同じ海部郡の日和佐、宍喰商と2004年に統合され、「海部(かいふ)」となった。
その海部が11年ぶりに秋の県大会ベスト4に残り、同じ県南で甲子園出場経験のある阿南光とぶつかった。敗れはしたが、1977年に前身の日和佐以来48年ぶりの四国大会出場へ、5日の3位決定戦に回った。
自慢の打力で2試合を勝ち上がってきたが、ヒットは相手の13本に対し、10本と大きく変わらない。しかし得点は1点だけだった。
「チャンスの場面で1本が出ないのが痛かった。守りのミスもあるけど、投手を野手陣がカバーしきれなかった。48年ぶりというよりは、優勝するのが目標だったので、そこの意識はしていなかった。絶対、3位はつかみ取りたい」。主将の藤本樹(2年)は言った。
海部となってから、プロ野球で通算127セーブを挙げて活躍した森唯斗(元ソフトバンクなど)らが巣立ったが、海部郡の選手は郡外に引き抜かれることが多く、成績は振るわないことが続いた。
そんな状況が変わったのは、2023年のことだ。社会人の日本通運や東洋大、アマチュアの全日本監督を務めた杉本泰彦氏(66)が監督に就任。海部郡牟岐町出身で「過疎で苦しむ地元を何とかスポーツの力で盛り上げたい」との思いで戻ってきた。
部員32人の7割ほどが徳島県外の生徒という海部。この日の準決勝に名前を連ねたスタメン9人のうち、県内出身者は2人。しかし、それ以外の7人のなかにも、父が海部郡出身という選手が3人いるという。
ピンチで何度も投手を励まし、ヒットも放った捕手の大崎元ノ助(1年)は神戸市の出身だが、父は海部高のある海陽町出身だ。「最初は生活に全然慣れなかったけど、今は野球、野球という感じで遊びとかはやっていない」と語る。
京都府に住む西宮健司さん(50)は、海陽町の漁師の家で育った。自身は野球の実力を認められ、高校時代は県内の名門の一つ鳴門へ進んだ。しかし、どこかで古里への思いはあった。杉本監督の評判を聞いていたこともあり、次男で投手の功貴(2年)には海部への入学を勧めた。準決勝で先発した息子をスタンドで見つめ、「これは私の中なりのUターンのつもりなんです」と語った。
杉本監督は、海部郡に毎年上陸する動物になぞらえて言う。「孫が離れていた祖父の家で暮らして学校に通い、息子の野球を見るために、県外に出た親が1週間に1回とか地元に戻ってくる。そういうウミガメみたいに帰ってくることが大事。甲子園に行きたいのはやまやまですけど、そういう形で活性化がいいのではないか」
指導は現代的だ。専用のアプリを使い、練習や試合の反省を32人の部員とやり取りする。個別指導を丁寧にするため、毎日2時間ほどはかかるという。練習では、選手が自由に選んだポップスがBGMで流れているという。
杉本監督は準決勝の敗戦後「きょうは、ついてなかった。相手に打たれたボールもベストピッチが何球もあった。最後にコールド負けしなかったところは、3位決定戦に向かってすごく勇気づけられる」と前を向いた。(土井良典)