サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような超マニア…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような超マニアックコラム。今回は日本サッカーの「夜明け前」。

■「リーダーシップ」をとれる選手

「話してみましょう」と約束したものの、私は「さてどうしたものか」と考えていた。こういう話なら、読売クラブかなと思った。しかし、そのとき加茂周さんの顔がひらめいた。そうだ、あの人なら、建設的な話をしてくれるかもしれない―。

 そうして実現したのが、その年の12月、トヨタカップでインデペンディエンテが来日した際の、宿泊ホテルでのマランゴニと加茂さんとの会談だったのだ。

 加茂さんは若い頃から英語が得意で、マランゴニとの会話は非常にスムーズに進んだ。仲介した私は、加茂さんの横に座り、終始黙っているだけだった。もちろん、メモなど取らない。2人が何を話したか、今となっては何の記憶もない。

 加茂さんはマランゴニをとても気に入ったようだった。

「会ってみると、リーダーシップをとれる選手であることがわかった。サッカーの実力と国際的な経験は問題ない。練習から私生活にわたるまで、プロとして打ち込む姿もすばらしかった。いろいろな面で、若い選手たちの生きた手本になると確信した。彼が英語を話すことも、直接コミュニケーションするという面で好都合だった」(加茂周『モダンサッカーへの挑戦』1994年、講談社)

 だが残念ながら「日産背番号5マランゴニ」は実現しなかった。加茂さんは、日産自動車サッカー部を管轄する厚生課長だけなく、人事部長、担当常務まで、いろいろなレベルの人に「マランゴニを取りたい」と話したという。残念ながら結論は「もう少し待て」だった。しかし加茂さんのその姿勢が、1987年、マランゴニ以上の「ビッグネーム」である元ブラジル代表主将でDFのオスカー獲得につながる。

■トヨタカップで「国立」の舞台に

 1984年のトヨタカップは、「フォークランド(アルゼンチンではマルビナス)戦争(1982年)後の初めての英国とアルゼンチンの試合」として、世界的に大きな注目を集めていた。私はブエノスアイレスでの取材後、ブラジルのポルトアレグレに立ち寄ったのだが、そこで前年のトヨタカップ取材で友人となった地元記者にこの試合についてのコメントを求められるはめに陥る。

「サッカーはサッカー。戦争は関係ない。両クラブとも、サポーターのため、そして自国のファンのために全力を尽くすと語っている」と話すと、翌日の新聞に写真入りで(!)「Jogo Sim, Guerra Nao (試合はイエス、戦争はノー)」という素敵なタイトルの記事になった。

 高輪プリンスホテルでの加茂さんとの会談の数日後、12月9日にマランゴニは国立競技場の舞台に立ち、トヨタカップでリバプール(イングランド)を1-0で下し、「クラブ世界一」のタイトルを手中にした。いつもなら他クラブのタイトルになど興味を示さないアルゼンチンのサッカーファンも、この勝利にだけは狂喜したという。

 マランゴニは1988年までインデペンディエンテでプレーし、選手生活の最後をボカ・ジュニアーズで送って1990年に36歳で引退した。引退後は監督を務めたこともあったが成功せず、少年チームを育成する組織をつくり、サッカーのプレーだけでなく、ユニフォームを着ることになったクラブのためにすべてを捧げる姿勢を今も説き続けている。

■「プロ時代」を渇望した先人たち

 1984年12月。日本のサッカーには、まだ「プロ化」の気配もなかった。1968年の「メキシコの栄光」から16年。読売クラブ、日産自動車という「プロ志向」のチームがJSLの優勝を争う時代になり、後から見れば「夜明け」は確実にすぐ先にあったのだが、その直前の漆黒の夜空に包まれた身としては、そんなことを感じることなどできなかった。それは、「黒船」来港前夜の江戸時代のようだった。

 だがそんな暗闇の中でも、必ず夜明けが訪れることを信じ、プロ時代の到来を渇望し、それに向かって針の先ほどのチャンスでもつかもうとしていた加茂さんのような人が、日本サッカーの中にいたことを忘れてはならないと思う。そして、その重要な「触媒」のひとりとして、クラウディオ・オスカル・マランゴニというひとりのアルゼンチン選手がいたことも、日本のファンに知っておいてほしいのだ。

いま一番読まれている記事を読む