サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような超マニア…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような超マニアックコラム。今回は日本サッカーの「夜明け前」。
■ハシゴを外された「総監督」
「可能性はある。会いたい」
1984年10月、南米取材から帰国した私は、日本サッカーリーグ(JSL)の日産自動車サッカー部に連絡し、東京・東銀座の日産自動車本社に、当時サッカー部の「総監督」という立場だった加茂周さんに会いにいった。「ダメ元」と思っていた私の話に対し、意外なことに加茂さんは乗り気になった。話しにいった私のほうが当惑した。
三菱重工から日本サッカー協会への「出向」という形で日本代表監督を務めていた森孝慈さんは、この年の4月にシンガポールで開催されたロサンゼルス・オリンピックの予選で4戦全敗という結果に終わり、9月の日韓定期戦(ソウル)を最後に退任することが濃厚だった。その後任として、この頃、加茂さんに白羽の矢が立っていた。その準備のため、加茂さんは日産の監督の座をコーチだった鈴木保さんに任せ、自身は「総監督」という立場になって第一線から退いていた。
ただ、9月30日にソウルで行われた日韓定期戦で日本代表が2-1の勝利を収めたことにより、急転直下、森監督の留任が決まり、結果として加茂さんは「屋根に上がってハシゴを外される」という形になってしまった。私が会いにいったのは、そうなる前のことだっただろうか、それとも「ハシゴを外された」後だっただろうか―。
■決めたのは「木村和司」と…
1972年に始まり、ホームとアウェーで繰り返してきた日韓定期戦。1984年は第12回大会、6回目のソウルでの試合だったが、日本にとって初めての「アウェー勝利」だった。その驚きと喜びは格別だったのだ。加茂さんにとって皮肉だったのは、「森ジャパン」を勝利に導き、加茂さんの日本代表監督就任を10年間も遅らせた2ゴールが、木村和司さんによる直接FKでの先制点と、1-1で迎えた後半に水沼貴史さんがきれいに流し込んだ決勝ゴール、いずれも日産の選手が決めたことだった。
加茂さんは1964年に関西学院大学を卒業してヤンマーディーゼルに入社し、1965年にJSLがスタートするとセンターフォワードとして活躍、しかし、1967年に釜本邦茂さんの入社とともに日本リーグ上位進出を目指してチームを大幅に若返りさせることになって引退、コーチに就任した。そして1969年に日本で開催されたFIFAコーチングスクール(アジア各国のコーチ対象)に参加、主任講師のデットマール・クラマーさんの薫陶を受けて「プロコーチ」を目指すようになる。
天皇杯を2回制覇し、JSLでも優勝を飾ると、1973年元日の天皇杯決勝(ヤンマー1-2日立)を最後にヤンマーを退職。その年のうちにいくつものチームから誘いを受け、その中から当時神奈川県リーグ1部(当時の「ピラミッド」でいえば、JSL、JSL2部、関東リーグに次ぐ「4部」にあたる)の日産自動車と契約した。形としては「1年契約の常勤社員」だった。
■4部リーグからの「再挑戦」
このとき、加茂さんのもとには、さまざまな企業チームからのオファーがあった。すべてが社員としての誘いだった。なかには「部長待遇で」という企業もあった。しかし、彼は敢えて「プロ」の道を選んだのである。
1974年に日産の監督に就任、5年目の1979年にJSL1部昇格を果たす。しかし「チャンピオンを目指すにはモデルチェンジが必要」と、2シーズンでJSL2部に降格したのを機に、日本代表クラスの大学生有力選手を一挙に補強した。その新しいチームの核となったのが、1980年入社の金田喜稔さんであり、1981年に入社した木村和司さんだった。
1年で1部に復帰、2シーズン目の1983年には読売クラブに次いで2位となり、一躍JSLの人気チームとなった。翌1984年にも2シーズン連続で最終節まで読売と優勝を争って2位となった。そして加茂さん自身の評価も高まり、「日本代表監督に」という話となるのである。