為末大インタビュー後編(全2回) 世界陸上に400mハードルで4回出場し、そのうち2回、銅メダルを獲得している為末大さん…
為末大インタビュー後編(全2回)
世界陸上に400mハードルで4回出場し、そのうち2回、銅メダルを獲得している為末大さん。2度目のメダル獲得となった2005年のヘルシンキ大会を振り返ってもらうとともに、今だからこそ語れる「緊張の正体」と「世界で勝てる選手」についても聞いた。
2005年世界陸上ヘルシンキ大会で、過酷な条件のなか銅メダルを獲得した為末大さん
photo by AFLO SPORT
【イレギュラーのなかで勝ち取ったメダル】
――2回目の銅メダル獲得だった2005年の世界陸上ヘルシンキ大会は、調子が戻ってきた手応えを感じていたんですか?
為末大(以下、為末)そうですね。ただ、自分の体の調子だけで言うと、意外とアテネ五輪のあった2004年のほうが高かったんです。練習でのタイムとか試合のアベレージもけっこう高くて。2005年は、それよりは調子が少し下がっていました。なので、本当に決勝だけがピタッと合って、うまく走れた感じでした。
――決勝は、強い雨が降ってスタート時間もかなり遅れるという、精神的にも揺さぶられる条件でしたよね。
為末 あれは10回走ったら、9回は6、7番になるレースでした。たまたまあの日、僕は条件が揃って3番になれたけど、ほかの選手とのレベル差を考えたら勝てなかったと思います。
――神懸かっていましたよね。
為末 本当に。なんであんなことになったのだろうと思います。ひとつ大きかったのは、ウォーミングアップが雨の影響で開放的な外ではなく、本競技場へ向かうための室内通路だったことです。そこに閉じ込められていたストレスも自分にはプラスだったのかもしれないです。
あのレースは若い選手が多くて、レース時間が決まらないことでみんながイライラしていました。それに僕らのレースの前に走るはずだった200mの準決勝が中止になったんです。その選手たちが、僕らがアップしている通路を通って戻っていくのを見たのは精神的に大きかったかな。前のレースが中止になれば「自分たちの決勝も中止かな」と思うじゃないですか。
余談なんですが、数年前にヘルシンキに行くことがあって「あの通路はどうなっているのだろう」と思って見に行ったら、記憶にあった巨大な通路ではなく、3人同時には並んで走れないくらいの狭さでした。「ここで8人がずっとウロウロしながらやっていたんだ」と思うとなんだか不思議な気分でした。
――それだけ当時は集中していたんでしょうね。しかし、中止かなと思って待たされるのはつらいですね。
為末 ウォームアップをしたりやめたりを繰り返している感じでした。少なくとも、一番若い19歳だった優勝候補のカーロン・クレメント(アメリカ)は、もう見るからに集中力がプツッと切れて、精神戦で脱落していった印象です。僕がすごくよかったというより、最後のほうまで集中していそうなのが4~5人に絞られ、そこで競争したという感じでした。
――1度のフライングのあと、為末さんは自分の7レーンから「うしろにいる選手の表情を見てメダルを確信した」と、当時お話をされていました。技術もそうですが、精神面も大きく影響したレースだったんですね。
為末 そうですね。「そうなったらいいな」くらいでしたが、2台目のハードルまでは最速で行き、そのあとは普通のペースに戻して第3コーナーから再び少し上げてプレッシャーをかけるという感じで走りました。結局4位のクレメントとは0秒08差でした。
あのレースを振り返って今思うのは、雨が降るなどいろいろなことが周りで起きた時に、人はひとつのことにフォーカスし続けること、集中し続けることが難しいんだなということです。
だけど、それは年齢とともに習得できることでもあります。当時、僕は27歳でそれなりに多くの大会を経験していました。優勝したバーション・ジャクソン(アメリカ)は初決勝でしたが、2位のジェームズ・カーター(アメリカ)は僕と年齢が近くて、彼と僕だけが経験者みたいな状況でした。
身体的にはどうしても若い選手には勝てないけれど、ああいうイレギュラーなことに対しては、ある程度経験がなせるものもあるのかなと思っています。
【陸上競技から学んだこと】
――2度目の銅メダル獲得で、「もう一度日本記録を更新できるぞ」と火がついて、2006年はハードルを封印し、スプリントに特化したのですね。
為末 ハードルは歩数がけっこう重要で、減らせるとタイムが上がるので、歩数を2歩減らしたかったんです。2001年ヘルシンキ大会は金メダルとの差が4~5mあったので「この先世界一になろうと思うなら、この5mを詰めなくては」と考えました。
これは、根本的に足を速くしてストライドも伸びないと、歩数を減らすことはできないと思ってスプリントに挑戦しました。5台目までは13歩で、そのあとに14歩を2回入れて8、9、10台目までは15歩だったのを、そのうちの2回を14歩にできれば歩数がふたつ減らせ、単純計算で4m50cmくらい縮められる。それができれば5回に1~2回は金メダルに迫れると考えました。
自分の能力としたら47秒4~5が限界かなと思ったけど、そのくらいのリスクを取ってもやってみたいと考えてスプリントに力を入れました。でも結局、2007年の世界陸上大阪大会の年に調子が下がってしまい、2008年はケガをしてチャレンジできないままで終わりました。あれができていたらどうだったんだろうな、というのは今でも思いますね。
――調子が下がり気味だったという2007年の世界陸上大阪大会は、自国開催のプレッシャーを感じていましたか?
為末 プレッシャーがかかって遅くなった結果、予選敗退でした。5月の大阪グランプリまではすごくよくて、そのあとの台湾のレースで急に走りにくくなり、そこからは全然ダメでした。
ただ、引退して陸上から外の世界に出て、世の中にはプレッシャーがかかる職業がいっぱいあることを知りました。陸上の世界では、繊細な感覚を持って走っていましたが、ちょっと閉じすぎていたように思います。「負けても何か取られるわけじゃない」くらい、もうちょっと大らかだったらよかった気がします。
だから今の選手に会う時は、「たいしたことはないよ。引退したあとに振り返ると全部いい思い出にしかならないから、楽しんじゃったほうがいいよ」と、伝えるようにしています。
――引退してからは陸上にはかかわっていないのですか?
為末 僕はたぶん陸上界から一番遠いところにいますね(笑)。この間はサッカーのイベントが仕事の関係であったので国立競技場に入ったんですが、たぶん10年振りぐらいだったんじゃないかと思います。
今回あらためて現役時代を振り返ると、よかったことや悪かったことも含めて、今の自分を作るうえで重要な経験をいっぱいしたなと思います。
陸上競技は自分の弱いところも全部がさらけ出されてしまう。「こういう時に自分はメンタルが揺れるんだ」とか、陸上は自分の人生のなかで一番学んだ場所です。
【世界で勝てる選手とは?】
――客観的に見られるようになった今、世界選手権などの世界大会で勝てる選手の条件というのはどう考えますか?
為末 本当の自分が出てしまう場なので、取り繕っていると勝てないと思います。「見せたい自分」と「本当の自分」のギャップが大きいと、それが"恐れ"という感情につながります。
たとえば、本当の自分がバレると恐ろしいと思っている人は、本番で余裕がなくなる。僕らの世代は、「男子は大らかで豪傑みたいなのがかっこいい、強い」という考えがありました。だから、普段は豪傑のようなフリをしていても、勝負どころで余裕がなくなった時に、本来の神経質な自分が出てきてしまう。それを見せたくないと思う人ほど、そのギャップが緊張感につながってしまうと思うんです。
だから、本当の自分が出てしまうことを恐れず、ドーンと飛び込むような気持ちを持てることが必要。今の選手はもうそんなに取り繕っている選手っていないと思うけど、「変に背負い込まないで、とにかく自分を表現するんだ」とか、「楽しむんだ」と走ったほうが巡り巡っていいパフォーマンスになると思います。
「みんなの思いを背負って」という思いを持つのは悪いことじゃないけど、うまくいかないことが多いですね。そういう意味ではやっぱり、無邪気な選手は勝負強いと思います。
ただ、それはやろうと思ってできる心境じゃないので、多くの選手にできることはとにかく、「自分を精一杯表現したい」と思うこと。それで十分だし、楽しんでやれたら一番いいのではないかと思います。
――本当の勝負の舞台っていうのは、本能をむき出しにしないといけないということですね。
為末 それどころじゃなくなるっていう感覚で、演じている場合じゃなくなる。僕も2001年はうまくできたけど、だんだん大人になって社会と接していくうちに、少しずつ自分のなかに周りを意識する気持ちが出てきていました。
――2001年は無邪気な銅メダルで、2005年はうまくコントロールできた結果の銅メダルだったんですね。
為末 そうですね。同じ銅メダルでも全然違いました。僕は引退したあと「グラウンドで見た不思議な出来事が何だったのか理解したい」という気持ちがありました。そのひとつが「緊張とは何だろう」ということで、緊張に関する文献を読んだりしました。
たどり着いたのは、「緊張は社会性」ということでした。
周りから自分はどう見えているかを考えてしまう。無邪気な人が強いっていうのは、あまり社会からどう思われているかを気にしないからということ。
ただ、陸上みたいにメジャーとマイナーの間みたいな競技は、だんだん競技力上がっていくと接する社会も大きくなっていく。自分にとって慣れた社会を超えた時に、それに対してどうするかを学び、覚えていくプロセスが大事だと感じました。
――2005年の大阪大会がうまくいかなかったというのは、プレッシャーと緊張、つまり為末さんのキャパを超えていたということですか?
為末 大阪大会の時にそれを一番大きく感じていました。処理するだけの能力が自分になくて、未熟だったと思います。
ただ、今の選手たちは僕らの時代よりもオープンになっているように見えますし、いい状況だと思うので、世界陸上での活躍が楽しみです。
Profile
為末大(ためすえ・だい)
1978年5月3日生まれ。広島県出身。中学生のころから陸上で頭角を現し、高校では400mハードルで日本高校新記録と日本ジュニア新記録をマーク。大学4年時にシドニー五輪日本代表に選出され、以降五輪には3度出場した。世界陸上にも4度出場し、そのうち2回銅メダルを獲得。2004年にはプロに転向し、2012年に引退。現在はスポーツ事業を行なうほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求している。