サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム。今回のテーマは、憧れの背番号。

■選手リストに「背番号」を付け忘れた⁉

 ところが、スウェーデンで開催された1958年ワールドカップで、とんでもない手違いが起こる。ブラジル・サッカー協会(当時は現在のようにサッカーだけを統括する組織=CBFではなく、ブラジルのスポーツ全体を統括する組織=CBDだった)が、選手リストに背番号を付け忘れたのである。

「雪辱」に燃えるブラジル代表は、これ以上ないと言われる入念な準備を行ってスウェーデン大会に備えた。初戦の2か月も前の4月7日にミナスジェライス州のトレーニングセンターに候補選手を集め、食事やトレーニングだけでなく選手の私生活までコントロールした。性生活にまで口を挟んだという。それほどの準備をしながら、選手リストに背番号をつけ忘れたのである。

「ブラジル・サッカー協会御中 貴協会から送付された選手リストに背番号がつけられていません。至急背番号をつけて送り直してください FIFAワールドカップ組織委員会」

 現在なら、こんなEメールが送られ、30分もかからずに問題は解決しただろう。しかし当時の文書のやりとりは、郵便が基本だった。電報という手はあったはずだが、背番号なしの選手名簿を受け取って一瞬は茫然とした国際サッカー連盟(FIFA)の担当者は、それでも名簿印刷の締め切りに間に合わないと判断したのだろう、驚くべきことに、自分でブラジルの選手名簿に番号を振り始めたのである。

■残りの21人に「適当な番号」を振って印刷

 彼は以前のブラジル代表を思い起こし、知っている選手には同じ番号を振ろうと考えた。GKはカスティーリョである。1954年大会でも1番をつけ、レギュラーだった。だから1番。そこまではよかった。しかし、彼はそこで嫌気がさしてしまった。ブラジルの選手の名前はやたらに長く、しかも通常はニックネームを使うことになっている。「バウジル・ペレイラ」が、前大会もレギュラーとして出場していたMFジジのことであるとは、思いもしなかった。

 そこで彼は根気を要する努力を放棄し、残りの21人に適当に番号を振って印刷に回したのである。その結果、この大会でレギュラーGKとなるジウマール(ジウマール・ドス・サントス・ネヴェシュ)は、なんと「3番」となった。右ウイングのガリンシャ(マノエル・フランシスコ・ドス・サントス)は「11番」、左ウイングのザガロ(マリオ・ジョルジ・ロボ・ザガロ)は「7番」という不思議な現象も生まれた。

 そして「10番」は、エドソン・アランテス・ド・ナシメントという聞いたことのない選手に割り振られた。もちろんペレである。

■ワンダーボーイから「世界のアイドル」へ

 ペレはサントスFCで15歳のときにデビューし、「ワンダーボーイ」と言われていた。16歳でサントスのレギュラーになると、10番をつけてプレーすることが多かった。「左のインサイドフォワード」、「第2ストライカー」の役割だった。

 しかし、1958年ワールドカップでの「10番」は、まったくの偶然だったのである。

 大会前の小さなケガにより、ペレはオーストリア戦(3-0)、イングランド戦(0-0)では出番がなかった。しかし第3戦、フェオラ監督は前の2試合ではかばかしい活躍ができなかったマッゾーラ(後にイタリアのACミランユベントスでスターとなったジョゼ・アルタフィニ)を外し、ペレを起用した。

 この試合では得点のなかったペレだったが、準々決勝のウェールズ戦(1-0)では決勝点をマーク、準決勝のフランス戦(5-2)ではハットトリックの活躍でブラジルを初めてのワールドカップ決勝進出に導いてしまう(1950年大会の決勝リーグ最終戦は事実上の決勝戦だったが…)。そして決勝戦でも、スウェーデンを手玉に取る2点を決め、5-2の勝利でブラジルに初優勝をもたらすのである。

 ペレは「ワンダーボーイ」から「サッカーの王様」となり、世界のアイドルとなる。そしてペレの栄光が、「背番号10」に特別な意味を与えていくのである。

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