サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニ…

 サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム。今回のテーマは、憧れの背番号。

■「10番=スター」ではなかった時代

 サッカーが始まった頃から「10番=スター」であったわけではない。そもそも、サッカーが始まった頃には、背番号などなかった。世界の各地で背番号が使われるようになるのは1920年代から1930年代にかけてで、当時一世を風靡していた「ピラミッド・システム」のポジションごとに番号を振ったものだった。すなわち、「背番号」とは、「ポジション名」だったのである。

「ピラミッド・システム」は、今日風に数字で表記すれば「2-3-5システム」。「フルバック」と呼ばれたディフェンダーが2人、「ハーフバック」と呼ばれたミッドフィルダーが3人、そしてフォワードが5人で、右から7、8、9、10、11と振られた。右ウイングが7番、左ウイングが11番、9番はセンターフォワードである。そして8番と10番は右と左の「インサイドフォワード」を示した。

■10番の意味は「左のインサイドフォワード」

 すなわち、10番に「司令塔」や「エース」の意味合いはなく、単に「左のインサイドフォワード」ということを示すに過ぎなかった。その10番に特別な意味を持たせたのは、1958年ワールドカップ・スウェーデン大会でデビュー、見事なゴールでブラジルを初優勝に導いたひとりの少年だった。

 1940年10月23日、ブラジルのミナスジェライス州トレスコラソンイス生まれ。フルネームをエドソン・アランテス・ド・ナシメントといった。少年の頃から単に「ペレ」と呼ばれていたが、なぜそう呼ばれるようになったのか、本人にもよくわからなかったらしい。ただ、17年後の1958年6月、「ペレ」は世界で最もよく知られる名前となる。

 ワールドカップで背番号がつけられるようになったのは1950年のブラジル大会からだった。第二次世界大戦前の3大会、すなわち1930年ウルグアイ、1934年イタリア、1938年フランスの各大会では、背番号なしの選手たちがプレーしていたのだ。しかし1950年大会も、個々の選手に番号が割り振られたわけではなく、先発の11人が1から11の番号がつけられただけだった。この時代、選手交代は認められていなかった。

■「マラカナンの悲劇」のリベンジ大会

 ワールドカップで「固定番号制」が実施されたのは、スイスで開催された1954年大会からだった。大会前、22人の登録選手名簿を提出する際に個々の背番号を明記する形になったのである。そしてホームで行われた前大会で「マラカナンの悲劇」と言われるショッキングな敗戦で初優勝を逃したブラジルは、この1954年スイス大会では、公募によって採用された黄色いユニフォ―ムで心機一転、ジュネーブで行われたメキシコとの初戦に登場する。

 このとき、ブラジルの先発メンバーは、きれいに1番から11番をつけていた。ゼゼ・モレイラ監督は大会前に「レギュラー」を明確にし、彼らに1番から11番を与え、それ以外の選手に12番から22番を割り振ったのである。

 以後、これがブラジルの「スタイル」となる。2022年のカタール大会でも、初戦のセルビア戦(ルサイル・スタジアム)に登場したブラジル代表は、ほぼこの「スタイル」によっていた。ただひとりの例外が、20番をつけたヴィニシウス・ジュニオルが先発に入っていたことだった。先発に欠けていた8番は、フレジのものだった。

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