2011年の4月、中京大の3年生だった市川華菜(現ミズノ)は、織田記念の女子100mで日本記録に迫る11秒28(追い風2.6mの参考記録)を叩き出し、一躍脚光を浴びる。その後、2012年には4×100mリレーのメンバーとしてロンドン五輪に…

 2011年の4月、中京大の3年生だった市川華菜(現ミズノ)は、織田記念の女子100mで日本記録に迫る11秒28(追い風2.6mの参考記録)を叩き出し、一躍脚光を浴びる。その後、2012年には4×100mリレーのメンバーとしてロンドン五輪に出場し、同年9月の日本学生対校選手権(日本インカレ)では女子100m・200m・400mの3種目を制するなど、女王・福島千里に次ぐエースとして期待された。



今年の日本選手権で、短距離2冠を獲得した市川

 卒業後は苦しいシーズンが続いたが、今年は100mで6年ぶりに自己タイ記録の11秒43を出し、200mでは5年ぶりに自己記録を更新する23秒39をマーク。さらに、6月の日本選手権で福島を破り、100mと200 mの2冠を獲得するなど”飛躍の年”になった。その要因について、市川は次のように明かした。

「リオオリンピックに出場できなくなったことで逆に吹っ切れた部分があったし、東京五輪に向けて今のままだと何も変わらない気がして……。とにかく、何か新しいことをしなきゃと思ったんです」

 そんな想いで、昨年の11月から実行したのは、母校・岡崎城西高校の陸上部の練習に参加することだった。高校の陸上部の練習は時間こそ短いが、その分集中して走り込む。疲労の蓄積具合を見ながら週2、3回ほど顔を出し、自分とほぼ同等の走力を持つ男子の跳躍選手たちと共に汗を流している。

「私の高校時代は短距離専門の先生がいなくて、跳躍の先生にずっと見てもらっていたんですが、とにかく楽しいことばかりでした。それでも、走る量は多かったので”武者修行”に行こうと。高校生と練習することで、気持ちもリフレッシュされるような気がしましたし(笑)。

 高校での練習は1本1本の間の休憩がすごく短いので、持久的なトレーニングにもなります。それに加え、土曜日には十種競技の中村明彦選手をはじめとした混成競技チームとも練習させてもらいました。午前中は坂道を思い切り走って、午後からはクロスカントリーというメニューを今年の1月くらいまでやって。山道は足首に負担がかかるし、置いていかれると遭難しちゃいそうなので必死でした(笑)。毎日毎日、すべて全力でやったことが、結果につながったんだと思います」


日本選手権で福島(左)を抑えて2冠を達成した市川(中央)

 photo by YUTAKA/Aflo Sport

 結果を出せない苦しい時期、市川は2013年に痛めた腰のケガに悩まされていた。痛み自体は2年ほどでなくなったものの、体の左右の筋力差が大きくなり、練習でも全力で走ることに怖さを感じるようになった。失った走りの感覚をなかなか取り戻せなかった市川は、一昨年から去年にかけて、2人のトレーナーに治療を頼んだという。

「ケガを治してもらいながらトレーニング方法も教わって、体をすべて整えるところまでやってもらったことで『もう怖くない』と思いながら練習ができるようになりました。スピードが戻りそうで戻らないということが続きましたが、練習を繰り返していくうちに、だんだんと感覚のズレが修正されていったんです」

 体の状態はよくなっていったが、2016年までは11秒7台を切るタイムが出せずにいた。市川は「ケガをしている時でも、ナショナル合宿に呼んでもらった恩義を感じていましたし、頼られると『やらなくては』と思ってしまう性格なので」と苦笑する。

「昨年は順調に調子を上げることができて、5月の静岡国際で200mの自己ベストを出すことを目標にしていました。でも、午前中の200mの第1レースがなくなって、マイルリレーをやることになったこともあってか、自己ベストを出せませんでした。

 リオへ向けて、マイルリレーが出場権を獲得する可能性が高かったので、まずはリレーで結果を出すことを考えていました。個人種目に集中したい気持ちもありましたが、結果を残してなければ何も言えないと思っていましたから。でも、年齢を重ねるごとに、マイルと200mをどちらも100%で走るのは難しくなってきます。『マイルでも出たいけど、個人種目も頑張りたい』という板ばさみ状態はすごくつらかったですね」

 結局、マイルリレーでのリオ五輪出場はかなわず、その挑戦が終わった時は「もう走りたくない」という極度の脱力感に襲われた。しかし今年は、事前に「世界選手権へ向けてのリレー合宿はしない」ことが伝えられ、個人種目に集中することができた。”誰かのために”ではなく、”自分のために”と気持ちが切り替わったことで、やりたいことがはっきりし、そのための練習を考えられることがすごく楽しくなったという。



笑顔でシーズンを振り返る市川

「一時は、調子がよくても11秒7台がやっとという状態でしたけど、今年はスタートの誤差はあっても、その後の加速の感じは変わらず、悪くても11秒6台が出せるようになってきました。今の自分の調子がわかるようになってはきましたが、やりたいことがあり過ぎるので、まだまだ気を抜けません。東京五輪まであまり時間はありませんし、正直、ちょっと焦る気持ちもありますけど、やってきたことは間違っていなかったという自信は芽生えてきました」

 以前は、福島がやっている練習を見ても何のためにやっているのかわからなかったが、自分で考えながら練習をするようになって、それが理解できるようになった。今では福島と同じように、自分の走りに活かすため、男子選手の動きやハードル選手の腕の振りなども見るようになり、「やっと競技者として成長し始めました」と市川は笑う。

 その実感通り、日本選手権の200mで福島を破っての2冠を手にした。その3週間前に行なわれた布勢スプリント100mで、初めて福島に勝てた時の感覚が残っていたため、「ビビらずにいけたのがよかった」と振り返る。

「それでも、日本選手権で2冠を達成できた時は、信じられないという気持ちが強かったですね。周りの人が喜んでくれている様子を見て、『現実なんだ』と思えるようになりました。でも、世界選手権の200m参加標準記録(23秒10)を狙っていたので、タイム自体は納得できるものではなかったですし、福島さんの調子が悪かったからの結果ということもわかっています。福島さんは、個人で結果を出しながらリレーでもチームを引っ張り続けてくれた偉大な選手。お互いに標準記録を突破するレベルで戦って勝たなければ、心の底から喜べないと思います。なので、浮かれるような気持ちはまったくありません」

 それを実現するための課題が、スタートダッシュにあることも自覚している。スタートからうまくスピードに乗るために、7歩目まで顔を絶対に上げないという基本的なことから取り組んでいる。練習ではできても、試合ではまだ3~4歩目で上がってしまうというが、「もともと不器用なタイプなのですぐにはできないと思いますけど、それを地道にやっていくしかない」と力強く語る。

「リレーでも、福島さんがいるうちに世界と勝負しないといけません。誰かがドングリの背比べ状態から抜け出して、女子短距離界のレベルを引き上げなければいけない。ロンドン五輪の前は、『合宿で走れなければ、次は呼ばれない』という雰囲気がありましたが、そんな厳しさが徐々になくなってきているようにも感じます。ピリピリとした空気を取り戻すためにも、200mはもちろん、100mでも11秒3台を出して、そこからさらに上がっていかなければダメだと思います」

 29歳で東京五輪を迎えることもあり、福島と共に日本のチームリーダーとしての役割も期待されているだろう。トップアスリートとしての意識が芽生え始めたばかりの市川は、その期待を大きく上回る可能性を秘めている。