<文部科学大臣杯 第77回 全日本大学準硬式野球選手権大会: 早稲田大2-3立教大>◇22日◇準々決勝◇札幌市円山球場 …

<文部科学大臣杯 第77回 全日本大学準硬式野球選手権大会: 早稲田大2-3立教大>◇22日◇準々決勝◇札幌市円山球場

 大学準硬式の日本一を決める文部科学大臣杯 第77回 全日本大学準硬式野球選手権大会(以下、全日大会)。22日の準々決勝で早稲田大は延長11回の死闘の末、立教大に2対3でサヨナラ負けを喫した。

 試合後、選手たちがベンチを引き上げていく中、早稲田大の背番号1は地面に膝をついていた。塩尻 真生外野手(早稲田実出身)は「今年はロースコアの試合展開でも勝ち切ることが強みなのに、あと一歩力不足だった」と悔しさをにじませた。

 1年生の秋季リーグから主力として活躍し、この1年は副主将という肩書も背負って戦ってきた。「背負いすぎたかもしれない」と話すが、それは無理がなかった。旧チームからの経験者がほとんどおらず、チームを1から作らないといけなかった。

 だから塩尻は強い思いを持っていた。
 「旧チームの主力がかなり抜けたので、経験者である自分がどうにかしないといけない。だからチームを引っ張って結果を出せればと思っていましたし、ここで強い早稲田を途切れさせるわけにはいかない。継承させないといけないと思いながら戦っていました」

 結果はベスト8に終わり、優勝出来なかったが、「出場を1つの目標にしていたので、関東を代表するチームになれた」ことに達成感があると同時に、全国の厚い壁を越えてほしいという想いは後輩たちに託すつもりだ。

 そんな塩尻は高校時代、西東京の名門・早稲田実で3年間を過ごした。ただ3年間でベンチには届かず。同期に田和 廉投手など選手が揃っており「レベルの高い選手がたくさんいた」というのはもちろん、「ケガが続いてしまってどうしようもない時期が続いた」と思うようにプレーできる時間が短かった。

 ゆえに3年間でベンチに入れなかったが、「メンバーは頑張ってくれたし、中学を含めてレベルの高いところでプレーできたのは良かった」と早稲田実での3年間に後悔はなかった。

 その後、「硬式を続けた方が良い」と同期たちからは話をされたが、準硬式を選んだ。
 「1つ上の先輩方に話を聞いたり、体験をしたりすると、学生主体でやりたいことを理論立てて説明すれば叶えられるチームだとわかりました。
 また早稲田実では文武両道を大切にしており、自分も大事にしていたので、それを準硬式でも実践できる。自分のやれることを精一杯できると思って、準硬式を選びました」

 体験の時、「甲子園に出たような先輩はいるのでレベルが高くて、硬式に負けていない」と感じるとともに、各自で努力し続けるチームの雰囲気にも心を惹かれた。だから塩尻も、自主練習を積み重ね続けた。

 その成果の1つがバッティング。全日大会に向けて、大谷 翔平(花巻東出身)や阿部 葉太外野手(横浜)を参考にして、フォームを改造した。

 「春季リーグで不調でしたし、何かを変えないと高みを目指せないと思ったので、自分のスイングにあったフォームを研究するなかで、大谷選手と阿部選手のフォームがあっていると思ったんです。特にタイミングの取り方、腕の位置などが似ていたので、参考にさせてもらってもらいました」

 自分の形に落とし込んでいるという話だが、実際に「練習試合のとき『大谷 翔平、阿部 葉太どっち?』と言われます」と声かけられるそうだが、結果的に調子を上げることが出来ており、手ごたえがあった。

 ただこの試合は1本を出せず、悔しい結果に終わった塩尻。秋季リーグを最後に引退するが、ここまで過ごしてきた準硬式に対して、こんな思いを語った。

 「準硬式は簡単に手を抜けるので、そこをどれだけ頑張れるかが大事です。ただ自分次第でなりたい自分になれます。だからこそ自分は中学時代の恩師で『頑張るときはいつも今』という言葉を時々思い出して頑張っています」

 同期と再会すると「お前凄いな」と言われるということで、「準硬式を選んで後悔はない」と胸を張る塩尻。その表情は清々しかったが、果たしてどんな形で野球人生を完結させるのか。最後まで悔いのない野球人生を歩んでほしい。