<文部科学大臣杯 第77回 全日本大学準硬式野球選手権大会:専修大0-1福岡大>◇22日◇準々決勝◇札幌市円山球場 大学…

<文部科学大臣杯 第77回 全日本大学準硬式野球選手権大会:専修大0-1福岡大>◇22日◇準々決勝◇札幌市円山球場

 大学準硬式の日本一を決める文部科学大臣杯 第77回 全日本大学準硬式野球選手権大会(以下、全日大会)。22日の準々決勝では専修大が福岡大と対戦。試合は延長10回タイブレークの末に、0対1で敗れた。

 手に汗握る投手戦を勝ち切れなかった専修大・竹村 健太投手(星稜出身)。最速140キロを計測するストレートに、カットボールやスライダーなど多彩な変化球で10回10奪三振1失点。「最後まで踏ん張り切れなかったので反省しています」と試合を振り返ったが、主将にしてエースという大黒柱としての責務を十分に全うした。

 最速146キロを計測する本格派左腕で、対戦相手も試合中に“えぐい”や“笑えない”といった表現で、竹村を称賛していた。そんな竹村が現在に至ったのは星稜での3年間があったからだ。星稜中では主力選手として活躍。春には全国大会にも出場したが、いざ高校野球界の名門校に飛び込むと、「周りを見たら凄い先輩たちばかりでした」と語る。

 「元々、高校野球を見始めたときからユニフォームがカッコいいと思って、星稜で野球をしたくて中学受験をしました。しかも当時の先輩には奥川さんや、内山(壮真)さんや寺西(成騎)さんなどいたので、憧れていました。なので、自分からアドバイスを求めたりして、本当に恵まれた環境でした」

 当時は3年生に奥川 恭伸投手(現ヤクルト)に山瀬 慎之助捕手(現巨人)と、夏の甲子園準優勝を果たす選手たちが揃っていた。チーム内の競争が激しかった時期だったが、竹村にとって、「凄いな」と思いながら練習に取り組んでいた。

 その後、自分たちの世代になれば最速134キロの直球を武器にベンチ入りを果たし、公式戦でも登板。主にリリーフ登板という形でチームの戦力として活躍してきたが、最後の夏はベンチを外れてしまい、高校野球3年間が終わった。

 「今となって生きていますが、当時はもがき苦しんで、結果的にベンチを逃して悔しい思いをしました。正直、夏の大会もベンチに入るだろうと両親と一緒に思っていたのですが、春から不調に陥って悩んでいました。それで食事ものどを通らず、体重が6キロほど痩せました。あそこが人生で一番苦しかったし、両親には6年間星稜に通わせてもらったのに、最後がベンチ外で終わって申し訳なかったし、悔しかったです」

 この悔しさを大学でぶつける。その場所として選んだのは硬式ではなく、準硬式だった。

 「最初は野球から離れるつもりでしたが、引退して野球がない生活が耐えられず、大学でも野球をしたくなりました。それを山下(智将)先生に相談した際に、専修大の準硬式を勧めてもらいました。自分自身、高校時代はそれほど登板できませんでしたし、学生野球最後になる。そして星稜では両親に申し訳ない形で終わったので『1年生から試合に出場して楽しみたい』と考えていたので、入部することを決めました」

 進学後、これまで積み重ねてきた練習を続けて、球速を146キロまで伸ばす。変化球も人に教わったり、動画で学んだりして増やしたことで「どの球種でも三振を取れる」ほど武器になった。

 おかげで昨年には関東地区の選抜チームに召集。ついに全国の舞台を経験すると、集大成のこの夏はチームを全国大会に導き、ベスト8まで進出。しかもリーグ戦ではプロのスカウトからもチェックが入り、ある球団は熱心に追いかけているということで、密かにドラフト戦線に浮上しつつあるようだ。

 進路を決めるのはこれからのようだが、少なからず準硬式での4年間で、「ここまでなれるとは思わなかった」と振り返ると、続けて準硬式の良さをこんな風に語った。

 「下級生から試合に出られるのが準硬式だと思います。自信がない選手でも活躍できる場があるのは準硬式の良さだと思います」

 負けた悔しさはもちろんだが、時折見せる表情からはどこか充実感が感じられた。果たしてどんな進路を選択するのか。