ときおり起こる歓声を背に受けながら、阪神甲子園球場の周りを歩く。80年前、こんな平和な騒々しさはなかった。 球場のあっ…

 ときおり起こる歓声を背に受けながら、阪神甲子園球場の周りを歩く。80年前、こんな平和な騒々しさはなかった。

 球場のあった武庫郡鳴尾村では当時、近くの航空基地などが米軍機の爆撃を受けた。兵庫県西宮市によると、1945年3~8月に村は計8回の爆撃や機銃撃を受け、少なくとも430人以上の死傷者が出た。

 この年、選手権大会は非開催。球場の大鉄傘は金属供出のため姿を消し、グラウンドにはイモが植えられた。球場出入り口の鉄扉には、米軍の機銃掃射によると見られる弾痕が数カ所、生々しく残った。

 2007年に始まった球場の改修により鉄扉は取り外され、現在は球場内の甲子園歴史館ヒストリーコーナーに展示されている。大会期間中に訪れる、1日平均約2千人の多くが、その「歴史証言者」の前で足を止める。

 この日戦った沖縄尚学の三塁手、安谷屋春空は、負傷兵や住民が避難した自然洞の糸数壕(ごう)(アブチラガマ)のある沖縄県南城市玉城で生まれ育った。「たくさんの命が失われたと聞いた。戦争はいけない。歴史を忘れてはいけないし、野球をできることに感謝したいと思う」

 球児と同じく、私も戦争を知らない。だからこそ戦争の記憶に触れていないといけないと思う。「戦後」に終わりはない。(山田佳毅)