日本サッカー界を代表するストライカー・釜本邦茂さんが亡くなった。日本代表として75得点、メキシコ五輪で得点王など、数々…

 日本サッカー界を代表するストライカー・釜本邦茂さんが亡くなった。日本代表として75得点、メキシコ五輪で得点王など、数々の記録に彩られたサッカー人生だったが、その本当のすごさは記録以外の部分にあると言うのは、その全盛期を知るサッカージャーナリスト後藤健生だ。追悼の気持ちを込めて、不世出のストライカーの「真の功績」に迫る!

■全盛時代を知るからこその「違和感」

 8月10日未明に、釜本邦茂さんが亡くなった。かねてから闘病中とうかがってはいたが、享年81。あまりに早いお別れだった。

 釜本さんのご逝去を受けて、各メディアも釜本さんの功績をさまざまに報じている。

 そうした中で、日本代表での国際Aマッチ75得点という記録がよく紹介されている。出場試合数は75試合、つまり1試合にほぼ1得点というのだから、他の追随をまったく許さない素晴らしい数字だ。

 だが、釜本さんの全盛時代を知る僕たちとしては、この記録にはちょっとした違和感を覚えざるをえない。

 釜本さんが活躍していた時代に、日本代表はワールドカップには出場していない。また、日本代表がヨーロッパに遠征してもアマチュア選抜や下部リーグのクラブとの対戦が多く、各国のトップリーグのチームと対戦することは珍しいことで、ましてヨーロッパの代表チームとの試合など、ほとんどできなかったのだ。

 従って、Aマッチの大半はアジアのチームとの対戦だった。

 もちろんオリンピックやワールドカップ予選などは重要な試合だったが、当時、日本代表にとっての大きなイベントがもう一つあった。

 それが、シーズンオフを利用して日本に遠征してくる強豪クラブとの対戦だ。

■記憶に残る「ブラジル強豪」相手のゴール

 最近も強豪クラブが次々と来日しているが、対戦するJリーグクラブ側にとってもプレシーズンの位置づけで、必ずしもベストメンバーで戦うわけではない。

 だが、1960年代から80年代にかけては、強豪クラブの来日は重要なイベントであり、日本代表は事前合宿をして対戦したのだ。

 釜本さんのゴールの中で僕たちが覚えているのは、そうした強豪相手のゴールだった。

 1967年にはブラジルのパルメイラスが来日した。日本代表とは3試合戦ったのだが、2戦目で日本代表はパルメイラスに勝利した。その立役者はもちろん釜本さんだった。0対0で迎えた74分に空中戦の競り合いで相手のファウルを誘ってPKを獲得(決めたのは小城得達)。そして、84分には体制を崩しながらも角度のないところから決めて2対1の勝利に貢献した。

■名門アーセナル相手に残した「インパクト」

 翌1968年にはメキシコ・オリンピックを前にイングランドの名門アーセナルとの対戦があった。国立競技場での第1戦。アーセナルは試合開始からわずか13秒で先制ゴールを決めて観衆の度肝を抜いたのだが、8分には日本が同点とする。

 右サイドの渡辺正からのクロスに対して、ニアサイドに飛び込んだ釜本さんが相手DFとの競り合いに勝って、ダイビングヘッドを決めたのだ。試合はアーセナルが3対1で勝利したのだが、大きなインパクトを残したのは釜本さんのゴールだった。

 もう一つ、僕が今でも鮮明に記憶しているのは1971年にトットナム・ホットスパーと対戦したときのヘディングシュートだ。

 神戸での第1戦でのことだった。やはり、右サイドからのクロスを釜本さんがゴール正面で強烈なヘディング。「間違いなくゴール!」と思ったのだが、トッテナムの名GKパット・ジェニングス(北アイルランド代表)が横っ飛びに飛んで両手でボールをはじき出した。

 まさに、ワールドクラスのストライカーとGKの勝負を見た気がした。

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