スポーツ記者として、初めて夏の甲子園を取材したのは1995年。野茂英雄が「トルネード投法」で大リーグを席巻した年だ。3…

 スポーツ記者として、初めて夏の甲子園を取材したのは1995年。野茂英雄が「トルネード投法」で大リーグを席巻した年だ。30年が経つ。

 開拓者が閉鎖的な日本球界に風穴を開け、大谷翔平ら日本人の活躍は日常的な光景になった。

 大谷の母校、花巻東(岩手)の選手アンケートを読んだ。「将来の夢」にプロ野球選手と書いたのは、登録20人中9人。大リーガーと書いた選手は、ゼロだった。

 意外だった。「少年よ、大志を抱け」でメジャーと書く球児がもっと多いと思い込んでいた。

 2年生の4番打者、古城大翔は「日本のプロ野球に行けるのも、ほんの一握り。甲子園でプレーして、上には上がいると痛感した」。父は元プロ野球選手。道の険しさを見て育った。将来も見据え、木製バットを使う。真剣にプロをめざすからこそ、無邪気にメジャーへの夢想は、書けない。

 一方で、ふだん取材する五輪競技の多くは世界一になっても、その競技で生計を立てるのは容易ではない。スポンサー集めの苦労を聞かされる。

 甲子園取材で改めて、プロの受け皿がある野球は幸せだと感じた。だからこそ、マイナー競技の選手が夢をかなえたときは、その軌跡を含めて光を当てたくなる。(稲垣康介)