元ヤクルト藤井秀悟氏の第2の人生 第2の人生は毎日が勉強の日々だ。NPBで15年間プレーした藤井秀悟氏は独立リーグの大阪…

元ヤクルト藤井秀悟氏の第2の人生

 第2の人生は毎日が勉強の日々だ。NPBで15年間プレーした藤井秀悟氏は独立リーグの大阪ゼロロクブルズでGMを務めている。「変なプライドもないので、スムースに溶け込めたのは良かったかな」と現在の仕事を語る。

 ヤクルト、日ハム、巨人、DeNAでプレーし、どのチームでも年間100イニング以上を投げた。「継続力と行動力はあったから、移籍先でもうまくはまったのかもしれないですね」。2014年に現役を引退するまでの15年間を振り返る。

「藤井といえばこれ、っていう球種が、僕は多分ないんですよ」と自己分析する。「速さもコントロールも変化球も突出したものがない。その中で工夫して試合を作ろうとしていた。ある程度ストライクゾーンに投げられれば、守っている野手もプロなので、それなりに試合になるんです。あと、どちらかといえば気持ちで投げるタイプなので、常に気持ちは強く持っていました。どこに移籍してもそこそこ投げられたのは、それが一番の理由かもしれないですね」。

 制球力はセカンドキャリアでも活きた。巨人で5年、横浜で2年、打撃投手(BP)を務めた。「肘を4回怪我しているのに、7年もできたのは、実はすごいことじゃないかなと思っています」。実際、ある程度実績がある投手がBPになっても、イップスになるなどうまく行かないケースが少なくない。打者に気持ち良く打たせるためには、技術も必要なのだという。

 現役時代は打者を抑えるために投げていたのに、BPでは打ってもらうために投げる。そのことが嫌ではないか、と尋ねられることも多かった。「現役の時に打たれすぎているせいか(笑)。打たれるのも全然嫌じゃなくて、むしろ打ちやすいボールをもっと投げようと研究したくらいです。外野でボールを拾うこともティー打撃でボールを置くことも何も嫌じゃなかった。それ以外の雑用もです。変なプライドもないし裏方を極めようと思っていました」。

広報で感じた激務「最初はちょっと心も…」

 しかし、38歳で始めた巨人のBPは当時、45歳が定年と決まっていた。「その年齢で球団に残れなかったら困るし、他の仕事も探していたら、横浜から話があって。ただ、巨人はBP専任なんですが、横浜では他の仕事を兼任しなければならないんです」。選んだのは、外部の人と接する広報だった。

 野球しかやってこなかった人生。広報は激務に感じたという。「BPと広報の兼務は大変で、最初はちょっと心も折れました。長年ブログをやっていたから、文章を打つのには役立ちましたけどね」。2年間務めた後、知人がオーナーに就任した独立リーグ・大阪ゼロロクブルズに指導者として呼ばれた。今年で4年目を迎えるが、監督、コーチ、GMと肩書は変遷したもののやることは同じだという。もちろん、過去の経験を活かしている。

「現役としてNPBを知っているだけではなく、裏方としていろいろな選手の調整法なども見てきました。投手コーチだけではなく他のコーチがどんなアドバイスをするのかも見てきた。これらは今、とても役に立っています」。活きているのは指導だけではない。「裏方でボール拾いもやって来たから、人手の少ない独立リーグでは雑用もしますし、苦じゃないんですよ」。

「僕も選手の時に完璧にはできていなかった。四死球も出したしホームランも打たれました。そういう時、指導者から頭ごなしに言われてどんな気持ちになるかもわかるから、言葉遣いにも気をつけています」。今の仕事には、大いにやりがいを感じている。いつか藤井氏の指導によりNPBに羽ばたく選手が現れることを、期待せずにはいられない。(伊村弘真 / Hiromasa Imura)