あらゆる競技が時代とともに変化し、進化を続けている。もちろんサッカーも例外ではない。この夏も「新たなルール」が導入され…

 あらゆる競技が時代とともに変化し、進化を続けている。もちろんサッカーも例外ではない。この夏も「新たなルール」が導入されたが、まだ改善の余地があると、サッカージャーナリストの後藤健生は考える。サッカーという競技を今後も維持するために「必要なこと」とは?

■興味深かった「安全なところ」からの中継

 7月30日にカムチャツカ半島沖でマグニチュード8.7の巨大地震が発生し、日本各地に津波警報・注意報が発令された。結局、日本に到達した津波は最大で1.5メートルほどだったが、警報の発令が長引いたため、交通機関の運休などで国民生活に大きな影響を与えることになった。

 僕はこの日は在宅で仕事をしていたので、地震発生直後からテレビを見ていたが、某公共放送局では津波警報が発令された直後から各地からの中継を伝え続けていた。主に海が見える高台などからの中継だったが、現地の模様を伝える記者やアナウンサーが、まず冒頭に「私は今、安全なところからお伝えしています」と、くどいように伝えていたのが興味深かった。

「安全なところ」のはずなのに、そろって白いヘルメットをかぶっていたこともツッコミどころだが、わざわざ「安全なところです」と伝える必要があるのだろうかと不思議に思ったのである。

 昔のテレビが元気な時代は、こうではなかった。

 台風などが来ると、記者やアナウンサーは(わざと)風や波の激しい現場に出て行って、「私は必死に風に耐えながら放送しています」といった感じで現場の模様を伝えるのがお決まりのパフォーマンスだった。

 わざわざ、そんな危険な所に出て伝える必要はなかったのに、である。そして、今では逆にいちいち「ここは、安全です」と伝えるようになったのだ。

 ちなみに、7月下旬に韓国南部が豪雨に見舞われて20人ほどの人が亡くなった。

 このとき、僕は韓国に滞在していたのでテレビのニュース番組を見ていたのだが、韓国の記者やアナウンサーは氾濫しそうな川のそばなどから現場の雰囲気を伝えており、昔の日本の中継と同じようで懐かしかった。

■自己責任論で「非難される」フリーランス

 もちろん、安全が大切なのは間違いない。

 わざわざ、風が強い場所や氾濫しそうな川岸から中継する必要はまったくないのだから、安全なところから中継するのは当然のことだと思う。

 だが、わざわざ「ここは安全です」と断りを入れ続ける必要はないはずだ。日本の報道機関は「安全」重視が徹底される反動として、危険なところに(必要があっても)記者やカメラマンを送り込まないようになってしまった。

 欧米の多くの報道機関がロシアが侵略を続けるウクライナの前線に記者を送り込んでニュースを伝えているのに、日本の大手メディアはそういう危険なところに記者を送り込むことを躊躇している。

 ウクライナでも中東でも、危険な戦場に赴くのはフリーのジャーナリストやフォトグラファーであり、彼らが戦闘に巻き込まれたりすると「自己責任論」で非難されることになる。

 そういえば、1999年に治安の悪いナイジェリアでワールドユース選手権(現、U-20ワールドカップ)が開かれたときも、現地入りしたのはフリーランスがほとんどで、日本代表がベスト4入りしてから大手新聞社の記者が次々とやってきた。

 ちなみに「安全なところ」からの中継で、某公共放送局の記者やアナウンサーは、何度も何度もまったく同じ情報を繰り返し伝え続けた。繰り返しだったから、まったく面白くないし、あれでは伝わるものも伝わらない。

 もちろん、災害時の放送については放送法による規定から逸脱できないのは知っているが、それにしてもあまりにつまらないので幻滅してしまった。

 あんな報道を続けているから人々は既存のメディアか離れて、真偽不明のSNSの情報に引きつけられていってしまうのだ。

■良さが消えて「サッカー離れ」が起きる!

 さて、「安全第一」思想はサッカー界も無縁ではない。

 前回のコラムでは「8秒ルール」の適用開始の話題から、アクチュアル・プレーイングタイム(サッカーの試合において、実際にボールがプレーされている時間のこと、省略してAPTとも)増加のための方法について考えてきた。

 ゴールキーパーがボールを持つことで、時間が浪費されることを防ぐために「8秒ルール」がつくられたのだが、プレーが止まるのはそれだけではない。

 セットプレーのたびにプレーが何十秒も止まり、VARが介入して何分も待たされる……。結果として、アディショナルタイムが10分に及ぶことも珍しくなくなってしまった。

 試合の流れが途切れて観客はしらけるし、帰宅時間は遅れ、放映時間内に試合が終わるかどうか地上波中継のスタッフをやきもきさせる……。

 試合が途切れないことや所定の時間内で試合が終わることがサッカーというスポーツの良さだったはずなのに、このままではサッカー離れが起こってしまうのではないか。

 そのためには、たとえばVARの運用方法は見直すべきだし、セットプレーでも試合再開までに時間制限を設けるべきだろうというのが、前回のコラムの趣旨だった。

■シューズの紐が緩んで「試合ストップ」

 同じように、最近のサッカーで目立つのは選手がケガをしたといってプレーが止まることだ。

 接触プレーがあり、選手が足を抱えて痛がっている。すると、味方や相手チームがボールを外に蹴り出したり、レフェリーが笛を吹いてプレーが止まり、メディカルスタッフが駆け寄って治療に当たり、選手がピッチ外に出て試合が再開するまで数十秒あるいは1、2分試合が中断する。

 その選手が重傷だったのなら、プレーを止めて治療する必要はあるだろうが、結局、その選手はただ痛がっていただけで、すぐに立ち上がって元気にプレーし始めるのでは、いったい何のためにプレーを止める必要があったのかと考えさせられる。

 時には、押しこまれたチームが試合の流れを切るために、わざと選手が倒れてプレーを止めることもある。国際試合などでは、相手にも審判にも日本語が通じないのを利用して、スタッフからあからさまに「倒れてろ!」とか「寝てろ!」と声がかかることもある。

 昔のサッカーは、それほど選手に優しくなかった。

 負傷した選手がいても、重傷である場合を除いてプレーを切ってもらえなかった。選手は自力で這うようにしてタッチラインの外に出て、そこで治療を受けるのである。

 そのうち、ヨーロッパでは選手がケガをしたときに相手チームがボールを外に蹴り出してプレーを止め、プレー再開のときにはスローインのボールを相手チーム(わざとプレーを止めてくれたチーム)に返すという習慣があることを知って、「本場ではなんとフェアなプレーをするのか」と驚いた記憶がある。

「選手に優しい」と言えば、最近はシューズの紐が緩んだ場合でも、レフェリーが試合を止めて紐を結び直すまで待ってくれている光景を見かけるが、これも昔では考えられないことだ。負傷の場合にプレーを止めるのは仕方ないにしても、紐が緩むなどというのはまさに「自己責任」なのだから、プレーを止めてやる必要はないように思う。

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