ある者は子供のときからのあこがれ、ある者は己の力の挑戦-。今年もドラフト会議の季節がやってきた。BIG6.TV では学生野球の聖地とも言える神宮球場で、4年間にわたる激闘を繰り広げてきた東京六大学野球の強者たちの中から、プロ志望届けを提出し…

ある者は子供のときからのあこがれ、ある者は己の力の挑戦-。
今年もドラフト会議の季節がやってきた。BIG6.TV では学生野球の聖地とも言える神宮球場で、4年間にわたる激闘を繰り広げてきた東京六大学野球の強者たちの中から、プロ志望届けを提出した選手にスポットを当ててその想いに迫る。第7回は早稲田・大竹耕太郎投手。リーグ戦通通算11勝を挙げている技巧派左腕だ。2年春には6試合にマウンドに上がって、防御率0.89で最優秀防御率を獲得するなど早稲田13季ぶり完全優勝の原動力となった(成績はすべて10月25日現在)。

◎プロ志望届を提出した思い
「大舞台でプレーするなかで大学進学後の夢が目標に変わった」

プロ野球にあこがれた少年時代。幼い大竹にきっかけを与えたのは父親、そして大きな影響を受けたのが早大の大先輩であり、地元九州の球団で活躍するあの選手だった。
「小学校に入る前から、父親とキャッチボールだったり、バッティングセンターによく行きました。野球を始めた原点ですね。自分がプロ野球の存在を意識し始めたのは、小学校2年生。初めてホークスの試合を見に行ったことがきっかけですね。生のプレーを目の当たりにして、『すごいな』と子供ながらに感動したし、自分もああいうところでプレーしたいと漠然と思いました。その頃にホークスで活躍していたのが、大学の先輩の和田(毅=現福岡ソフトバンク)さん。ちょうど和田さんが1年目で同じ左投手ということもあって、小さい頃からよく見ていたのを覚えています」

高校時代は熊本・済々黌でエースとして甲子園出場。技巧派左腕として注目を浴びるも、プロ入りの選択肢はなかった。早稲田大学へ進学し、4年後のプロ入りを目指した。
「自分の学校は進学校で、高卒で就職する人はまずいない。その時点でプロは選択肢から外れました。野球でも実力が通用するとは思わなかったし、まずは大学でしっかりとレベルアップをして、それからもう一度、自分自身を見極めたいと考えました。早稲田大学に決めた理由は、当時から早慶戦をよくテレビで見てましたし、大学野球といえば早稲田か慶應だろうと思って進学を決意したんです」

大学4年間でピッチングの幅は大きく広がった。高校時代の持ち球はストレートとスライダーのみだったが、日々の練習の積み重ねと研究の成果で投球術を身に付けた。
「配球に関しては、結構本を読みました。里崎さん、江川さんの本などを読んで、相手がこういう反応をしたら、これを狙っているとか、いろいろと参考になりました。試合中は、打者の腰の回転などで『ストレートを待ってるな』とか『変化球を待ってるな』と分かるようになってきました。試合前にも捕手と話し合って、状況によって臨機応変に対応しています」

◎4年間挑み続けた神宮の舞台とは
「スタジアムの雰囲気を肌で感じるし、楽しいマウンド」

熊本の野球少年から、早稲田を背負う投手へ成長した大竹。プロ野球を見る立場から、選ばれる側となって、自分自身が向き合うイメージも変わっていった。
「小さい頃はただ華々しくて、野球を仕事にしていて楽しそうだなというイメージでした。いまは、プロ入りした早稲田大学の先輩方から、簡単な世界じゃないということをお聞きしたりすると、相当な覚悟を持って挑まないと通用しないと感じています。プロ志望届を出して、指名されたときには覚悟を持ってやり抜くというか、精神力が大事かなと思います」

高校球児として甲子園のマウンドを踏んで、大学では聖地・神宮に立つ経験をした。どちらも大竹にとっては計り知れない財産となったに違ない。
「球場の雰囲気はまったく違いますね。神宮はすごくスタンドが近い。甲子園はアルプススタンドとマウンドの距離があるんですけど、神宮はすごくお客さんを近くに感じます。その分、応援団の迫力もあるし緊張することもある。4年間プレーするなかで、球場独特の雰囲気を肌で感じてきたし、(ゲームの)流れをつかむことが非常に大事。一方で自分のピッチングで観客が沸いたりするので、いいプレーができたら快感というか、楽しいマウンドではありますね。いろいろな経験をすることができた貴重なマウンドだったと思います」

■プロフィール
大竹耕太郎(おおたけ・こうたろう)1995年6月29日生まれ。左投左打。182㎝72㎏。済々黌(熊本)。リーグ戦通算36試合登板11勝10敗90奪三振。1年春からリーグ戦出場を果たすと、2年春には防御率0.89でベストナイン獲得するなど、13季ぶりの完全優勝に貢献。六大学屈指の技巧派左腕として、プロも一目置く存在だ。