韓国で行われた男子のE-1選手権は、サッカー日本代表の優勝で幕を閉じた。最終戦では韓国代表に1-0で競り勝ったが、ライ…
韓国で行われた男子のE-1選手権は、サッカー日本代表の優勝で幕を閉じた。最終戦では韓国代表に1-0で競り勝ったが、ライバルの「底力」を見せつけられた。これまでも両国のサッカーは、代表チームはもちろん、国内リーグおいても競い合うことで、発展を遂げてきた。その「これまで」と「これから」を、サッカージャーナリスト後藤健生が現地リポートする!
■Jリーグより「10年先輩」のKリーグ
E-1選手権が終わってからも僕はまだ韓国に滞在している。せっかく韓国に来たのだからKリーグを観戦してから帰国しようというわけだ。
E-1選手権開幕の頃には最高気温37度を超える猛暑に見舞われていた韓国だが、7月16日の大会最終日は大雨に見舞われ、その後も韓国は南部を中心に連日の豪雨だった。
僕は大会終了の翌17日に水原(スウォン)から大邱(テグ)まで移動するつもりで在来線の列車を予約しておいたのだが、大雨のために在来線は全面運休。KTX(高速鉄道)は動いているというので、いったんソウルまで移動してKTXで移動することになった。
大雨は19日まで降り続き、気温もぐっと下がって肌寒い日々が続き、ようやく20日の日曜日に夏が戻ってきた。
さて、Kリーグの話である。韓国のプロ・リーグは1983年に開幕した。つまり、Jリーグより10年先輩ということになる。
だが、初年度の「スーパーリーグ」に参加した5チームのうち、プロ化していたのは「ハレルヤ」と「油公(ユゴン)」の2チームだけ。大宇(デウ)、浦項(ポハン)製鉄、国民銀行はアマチュアのままでの参加だった。
1979年の朴正熙(パク・チョンヒ)大統領暗殺事件の後、「粛軍クーデター」を起こして全権を掌握し、軍事独裁政権を樹立した全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領は、国民の不満を和らげるためにスポーツを利用しようとした。
すでに1988年のソウル・オリンピックの開催は決まっていたが、それに加えて全斗煥大統領は韓国で人気のある野球とサッカーのプロ化を企てたのだ(ちなみに全斗煥は、若い頃は陸軍士官学校蹴球部の名GKだった)。
■日本に大きな影響を与えた「プロ化」
サッカー界は最初、「時期尚早」と判断してプロ化に消極的だったが、1982年に一足先にスタートしたプロ野球の人気を見て翌1983年に急きょプロ化を成し遂げたのだ。
大韓蹴球協会会長だった崔淳永(チェ・ジュニョン)はもともとプロ化推進論者で、1980年には自ら初のプロ・クラブ「ハレルヤ」を結成していた。キリスト教の布教を目的としたチームで、試合前に選手が十字の形に並んで、ひざまずいて祈りを捧げるというパフォーマンスをおこなっていた(ハレルヤは1985年にアマチュアに戻り、その後1998年に解散)。
もう一つのプロ・クラブ「油公」は、「鮮京(ソンギョン)」財閥が国営大韓石油公社の払い下げを受けたのをきっかけにプロ化したもの。済州(チェジュ)ユナイテッドの前身である。
開幕当時、スーパーリーグにはホームタウン制もなかったし、応援スタイルも実業団当時のままの応援団方式だった。つまり、まだ不完全な形でのプロ・リーグではあったのだが、それでも韓国サッカーのプロ化は日本に大きな影響を与えた。
■「ライバル」とは呼べなかった時代
1985年のメキシコ・ワールドカップ・アジア予選で日本は最終予選に進出し、韓国とホーム&アウェーで対戦したが、結果は2連敗に終わり、内容的にも完敗だった。
日本代表の森孝慈監督(故人)は、韓国の金正男(キム・ジョンナム)監督と学生時代から親交があったので、同監督を通じて両国の選手たちが置かれたプレー環境の違いを知り、日本サッカーのプロ化の必要性を痛感したという。
当時、実業団中心の日本サッカーリーグ(JSL)の人気も低迷しており、1988年にはプロ化を模索するための「活性化委員会」が発足、その後、欧米のプロ・スポーツの調査など長い準備期間を経て、1993年5月にJリーグがスタートした。
バタバタと急ピッチでプロ化を進めた韓国のプロ・リーグに対して、Jリーグは長い準備期間を経てのスタートだった。
いずれにしても、プロ化を巡って1980年代には韓国が先行していたし、また、代表チーム同士の対戦でも韓国は日本を圧倒していた。日本にとって、韓国は「ライバル」と呼ぶこともおこがましい「大先輩」だったのだ。
そのため、僕は何度も韓国のプロ・リーグの取材、観戦にいったのだ。
■取り入れられた「Jリーグ」の良さ
韓国のプロ・リーグは応援方式は実業団型だったし、クラブの経営は完全に親会社に依存していた。また、スタジアムも古い陸上競技場ばかりだったし、練習場も整っていなかった。
つまり、環境はけっして良くなかったのだが、ピッチ上のプレーはプロ化以前のJSLとは比べ物にならないほど激しく、力強いものだった。なにしろ、当時の韓国のサッカー人は「蹴球(チュック)は韓国の自尊心」「一番大事なのは根性」といった精神論を口にしていた時代だった。
一方、日本のサッカーは代表強化は遅々として進まなかったが、1980年代に入ると金田喜稔や木村和司に代表されるような個人技に秀でた選手が増え始めていた。力強さやスピード、あるいは戦術(駆け引き)面では韓国に遠く及ばなかったものの、日本のサッカーは韓国よりテクニカルだった。
1993年にJリーグが大成功を収めると韓国プロ・リーグはホームタウン制を全面的に取り入れたり、応援方式もサポーター中心にするなど、Jリーグの良さを積極的に取り入れた。そして、それまでリーグ戦の名称も「蹴球大祭典」とか「コリアン・リーグ」などコロコロと変わっていたが、1998年には「Kリーグ」という名称を正式に採用した。