蹴球放浪家・後藤健生は現在、韓国にいる。E-1選手権の取材は終了したが、放浪は延長戦に入っているのだ。韓国を歩きながら…
蹴球放浪家・後藤健生は現在、韓国にいる。E-1選手権の取材は終了したが、放浪は延長戦に入っているのだ。韓国を歩きながら、「日韓サッカー」と「生まれ育った町」に思いを馳せる。
■「コリアンタウン」大久保
柏木4丁目に住んでいた僕にとって、最寄り駅は中央線(総武線)の大久保でした。大久保駅や山手線の新大久保駅は、柏木のひとつ北側の百人町にあります。
大久保駅と新大久保駅の間は、今では「コリアタウン」として知られており、多くの韓国レストランや韓国エステなどがひしめくことで有名なエリアです。大久保の通りを歩けば、そこらじゅうの看板にハングルを見ることができます。
そして、大久保エリアには最近、韓国だけでなく、東南アジア各国の店も非常に多いようです。
もっとも、僕が子どもの頃の大久保~柏木は、高層ビルはおろか中層ビルもほとんどない住宅街でした。
ただ、ほかの町と違っていたのは新宿の夜の商売に携わっている人(つまり、夕方くらいに着飾って出勤していく女性たち)が多く住んでいたこと。そして、アジア各国の留学生たちが住んでいたことでした。
■祖父が使った「スッカラク」
留学生が多かったのは、柏木の一角に「国際学友会」という組織があったからです。設立は第2次世界大戦前の1935年。日本が進出を目指していた東南アジアやヨーロッパの友好国などの留学生を受け入れる組織でした。戦後の1958年には日本語学校が設立され、現在は「独立行政法人東京日本語教育センター」となっています。
だから、僕の家の近所には留学生がたくさん住んでおり、韓国料理店はもちろん、ベトナム料理店なんかもありました。今では、日本でもベトナム料理はポピュラーなものになっていますが、半世紀前にはとても珍しいものでした。
ただ、僕の両親は大正生まれだったので、東南アジアや韓国・朝鮮に対してネガティブな感情を抱いており、近くに存在するのに、子どもの頃は韓国料理屋やベトナム料理屋に入ったことはありませんでした。
一方、僕の祖父は韓国・朝鮮好きでした。若い頃に憲兵として朝鮮南部の全羅北道茂朱(ムジュ)郡というところに駐在したそうです。たぶん、1920年代のことでしょう。
もちろん、憲兵ですから、現地の人たちから見たら外国人の尊大な支配者だったのでしょうが、祖父は現地の「両班(ヤンバン)」と呼ばれる知識人たちと漢文を通じて交流していたらしく、朝鮮に親近感を抱いていたようで、死ぬまで朝鮮式のスプーンである「スッカラク」を使っていましたし、家の居間には朝鮮人からもらったという額が飾ってありました。
そんな幼児期の体験が、1983年に初めて韓国に行ったときによみがえったのかもしれません。僕は韓国の食べ物や韓国人一般に、かなり親しみを感じたわけです。
■日本より先に敗退で「安心」
ところが、僕はサッカー好きでした。
初めて見た日韓戦は1967年10月のメキシコ・オリンピック予選で、当時、日本代表は東京オリンピックのために強化されており、韓国とエキサイティングな点の取り合いを展開して3対3の引き分けでしたが、その後はずっと韓国に勝てない時代が続きました。
現在も、日本代表が韓国に対して対戦成績で大きく負け越しているのは、1950年代末から1970年代にかけてずっと負け続けていたからです。
だから、サッカーのことになると、僕は韓国に対して敵愾心を持っています。ワールドカップなどで、韓国が日本より先に敗退してくれるとホッとするのです。日本がどこで敗退しようが、韓国よりも上まで行ければ、それでとりあえず安心するというわけです。
「相手の国や国民に対しては親近感を抱きながら、スポーツの勝敗に対してはこだわりがある」というのは、実は理想的な状態のような気がします。ワールドカップのときには、韓国人のほとんどの人は日本の早期敗退を願っているでしょうが、これも当たり前のことです。スコットランド人が、イングランドの敗退を願っているのとまったく同じです。
ただ、それが国や国民、民族として排他的な感情につながることは絶対に許すべきではないと思います。
では、しばらく韓国滞在を楽しんで帰国したいと思います。