今年もプロ野球ドラフト会議を前に、注目選手たちの報道が賑やかだ。今年はとくに、大学生、社会人以上に高校生選手たちへ…
今年もプロ野球ドラフト会議を前に、注目選手たちの報道が賑やかだ。今年はとくに、大学生、社会人以上に高校生選手たちへの関心が高い。”甲子園”を沸かせたスター選手の知名度や期待感が高いからだろう。
この風潮の中で、あえて「ありえないこと」を問いかけてみよう。

アンダースローで打者を翻弄。昭和30年(1955年)には、プロ野球史上2人目、パ・リーグ第1号の完全試合を達成
もしいま、高校で実績のない選手、いや「高校で野球をやっていなかった選手」がいたら、どのような評価になるだろう?
武智文雄(1954年までは田中姓)は、まさにそれに該当する選手だ。後にプロ野球に入り、最多勝投手にも輝き、完全試合も達成した投手が高校時代に野球から丸4年も離れていたと言ったら、信じてもらえるだろうか。時代が違うとはいえ、肝心な青春時代、武智文雄は野球から遠ざかっていた。1941年(昭和16年)春、名門・岐阜商に入学。野球部に入ったが、世の中が戦争に向かう情勢の中、夏の甲子園大会が中止になると、文雄は「もう野球はできない」とあきらめ、岐阜商を中退して予科練(海軍航空隊の養成過程)を志願した。
16歳になる年の秋から19歳の夏まで、文雄は軍隊に身を置き、ほとんどボールを握る機会なく過ごした。特攻隊に配属され、国のために命を捧げる役目を担っていた。死ぬつもりで訓練を重ねた。多くの仲間は出撃し、2度と帰って来なかった。文雄は、幸運にも生きながらえた。国のために死ねずに故郷に戻った身の上を恥じる思いが当時は強かった。終戦を迎え、故郷の岐阜に戻っても、目的を失い、しばらくは荒れた日々を過ごした。
野球が戦勝国アメリカの国技だったこともあり、戦争が終わってまもなく、野球は盛んに奨励された。そんな中、岐阜の大日本土木という会社が野球部を発足させ、主に岐阜商OBたちを中心に日本一を目指すチームを作った。文雄もそのチームに迎えられた。
思えば、岐阜商1年の途中で野球をやめてから5年後、ブランクというより、本格的な野球はほとんど経験していなかった。亨栄商で名を馳せたエース・中原宏の活躍もあって、大日本土木は都市対抗野球で2連覇を飾る。文雄は、控え投手兼外野手として出場。中原が抜けた後、文雄がエースになった。そして1950年(昭和24年)、プロ野球の2リーグ分裂で近鉄パールス(後の近鉄バファローズ)が誕生すると誘われ、近鉄の契約第1号でプロ野球選手となった。
いまの日本野球の価値観でいえば、「選手として最も重要な時期に野球をやっていなかった」。しかし、文雄は、そのようなハンディキャップをものともせず、わずか3年でプロ野球選手となった。
1年目はパッとしなかった。本来はアンダースロー投手だったが、藤田省三監督の意向から、オーバースローで投げるよう命令された。当時、チームに実績あるベテランのアンダースロー投手がいたからだろう。慣れないオーバースローでは持ち味が生かせず、いい結果を残せなかった。悩んだ文雄は、意を決して監督にアンダースロー転向を直訴する。一度は撥ねつけられたが、やはり結果が出ないため、改めて願い出てようやく認められた。それからは、着実に勝利を稼ぐ投手となった。
1954年(昭和29年)には弱小・近鉄にあって26勝。南海の宅和本司と並んで最多勝投手に輝いた。そして翌1955年(昭和30年)6月19日、大映スターズ(現在の千葉ロッテマリーンズの前身のひとつ)を相手にプロ野球史上2人目の完全試合を達成する。パ・リーグでは初の快挙だった。
現役時代、武智投手と対戦した経験のある野村克也さん(元楽天監督)に取材を申し込むと、こう話してくれた。
「文(ふみ)さんが最多勝を取ったのは昭和29年。ちょうど私はプロ入り2年目、二軍暮らしだったから、一軍の試合を大阪球場のネット裏から投球を見ていた。いつでも打てそうな球だった。速くないし、球威もそれほどあるとは思えなかった。ところが、実際に対戦してみると思うような結果にならない。試合が終わってみると、4打数ノーヒット、そういう投手だった」
野村さんは、『プロ野球 最強のエースは誰か?』(彩図社)という著書の中で、野村が選ぶ「近鉄・楽天の歴代投手ベスト10』を挙げている。
1位野茂英雄、2位田中将大、3位鈴木啓示、4位岩隈久志、そして5位に武智文雄の名前がある。そして6位に則本昂大が続く。
歴史を紐解いてみると、武智文雄のように高校野球を経験していないプロ野球選手はいないわけではない。3度の三冠王に輝いた落合博満は、秋田工出身だが、「野球部にはほとんどいなかった」という逸話がある。体育会的な体質になじめず、すぐ退部した。試合のたびに助っ人を頼まれるから、入退部を繰り返すような形だったらしいが、事実上、熱心に練習を重ねた日々はなかった。
球界のレジェンド級の投手を見ても、必ずしも甲子園で活躍した経験の持ち主が多いわけではない。歴代最多勝の金田正一は1年夏に甲子園のベンチ入りはしたが登板なし。2年、3年では甲子園に届かなかった。歴代2位の米田哲也も、3位の小山正明も甲子園には縁がなかった。鉄腕・稲尾和久も高校時代は無名の存在だった。近年では、日米通算201勝を挙げた野茂英雄も甲子園には出ていない。高校進学のとき、大阪の強豪校のセレクションを受けたが相手にされなかったという逸話がある。
ただ、その中でも武智文雄の経歴は異彩を放っている。
1955年(昭和30年)8月30日、完全試合からわずか2カ月後に武智はもう一度、完全試合に王手をかける。同じ大映を相手に、9回1死まで25人を連続してアウトに打ち取っていた。あと2人、またも達成すれば、世界でも例のない「2度目の完全試合」を同じ年に達成するところだった。残念ながら、代打・八田正の鈍い当たりがセンター前にポトリと落ち、9回1死で記録は断たれた。だが、1年に2度の完全試合をやりかけた投手は武智のほかにいない。
16歳から20歳にかけて、野球からすっかり遠ざかっていた武智文雄がプロ野球で活躍した事実は、挫折した経験のある野球少年たちに勇気と希望を与えてくれるだろう。

知られざる名投手を追ったノンフィクション
『生きて還る~完全試合投手となった特攻帰還兵 武智文雄』
(小林信也 著・集英社インターナショナル)
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