プロ野球ではドラフト1位の選手が鳴り物入りで入団しながら、プロの厚い壁に跳ね返されることは珍しくない。しかし、20…
プロ野球ではドラフト1位の選手が鳴り物入りで入団しながら、プロの厚い壁に跳ね返されることは珍しくない。しかし、2006年ドラフト1位(高校生選択会議)で東京ヤクルトスワローズ入りした増渕竜義は実力が足りなかったわけでも、選手生命にかかわる大きなケガに見舞われたわけでもなかった。プロ1年目に初勝利を挙げ、プロの壁を軽々と乗り越えたはずだった。
それでも、プロ9年間で157試合登板、15勝26敗29ホールド、防御率4.36という成績を残しながら、あっさりとマウンドを去った。ドラフト1位の豪腕はなぜ、27歳で見切りをつけたのか? ユニフォームを脱いでから2年、『敗者復活 地獄をみたドラフト1位、第二の人生』(河出書房新社)という書籍で明かされた、早すぎる引退の理由に迫る。

力投する増渕竜義。まさに
「豪腕」だった
――増渕さんは2015年シーズン限りでユニフォームを脱ぎましたが、当時はまだ27歳。若すぎる引退でした。一軍の壁を破れずプロ野球から去る者もいますし、肩やひじを壊してユニフォームを脱ぐ投手もいますが、そのどちらでもありませんでしたね。
増渕 自分に自信がなかったというのが一番です。自分が思うようなボールを投げられなくなったから。いろいろと試行錯誤はしたのですが、これ以上続けたら、野球が嫌いになってしまうんじゃないかと考えました。
――しかし、プロに残れる可能性が1パーセントでもあるならば、それに懸けるのがほとんどの野球選手です。後悔はありませんでしたか?
増渕 野球に対して、悔しさはありません。ユニフォームを脱ぐ寂しさもない。精一杯やったので、最後はスパッとやめるつもりでした。だから、トライアウトも受けませんでした。
――増渕さんはプロ1年目に初勝利を挙げ、2年目の2008年には11試合に先発して3勝をマーク。2009年は練習中の打球があごを直撃するアクシデントに見舞われましたが、2010年は57試合に登板し、2勝3敗20ホールド、防御率2.69という成績をおさめ、チームにとって欠かせないセットアッパーに成長しました。
増渕 最初の数年間は、コントロールを気にするあまりピッチングが小さくなっていました。あまりに狙いを小さくしすぎると、自分を追い込んでしまう恐れがある。バッターと戦っているはずなのに、その前に自分で自分を苦しくしてしまっては意味がありません。自分のピッチングができるようになったと思えたのはプロ4年目くらいでしょうか。
入団したときの僕のセールスポイントは、力のあるストレートでした。でも、コントロールを重視するあまり、スタイルを見失ってしまったように思います。コントロールを考えて140キロしか出ないのなら、多少制球が悪くても150キロのボールのほうがバッターは嫌なんじゃないか。そう感じたのが2010年ごろでした。
――試行錯誤の末に、自分の投球を取り戻したのですね。
増渕 原点を忘れてはいけないということですね。コーチはその選手が少しでもよくなるように足りない部分を指摘してくれるわけですが、自分のことは自分が大事にしないと。セールスポイントをなくしてまで意見を受け入れる意味があるのかどうか、しっかり考えないといけない。もしかしたら、僕は人の意見を聞きすぎたのかもしれません。でも、うまくいかなかったのはコーチのせいではなくて、自分が自分を見失っていたからです。
――2011年は再び先発に回って前半だけで5勝をマーク、7勝11敗、防御率4.22という成績を残しました。
増渕 2011年はスワローズが本当に優勝できるかも、というシーズンでした。僕がもう1勝していれば……。1試合1試合が大切なんだと改めて実感しました。負けた試合のどれかでもっと踏ん張っていれば、優勝できたんじゃないかと思います。
――2012年は再び中継ぎに回り(先発は5試合)、2勝7敗8ホールド、防御率は5.38でした。しかし、翌年あたりから、増渕さんは精彩を欠くようになります。原因は何だったのでしょうか?
増渕 また自分のピッチングを勝手に小さくしてしまっていたと思います。何が正解なのかわからず、悩みました。僕はコーチに相談するタイプだし、先輩にも『どうすればいいですか』とよく聞いていました。プロの世界ではまわりの意見を聞かない人がたくさんいますし、そういう選手のほうが活躍しているような気がします。でも、僕はそうではありませんでした。
――誰かの意見を聞くことでヒントを得ることがありますが、アドバイスを受けてさらに混乱する場合もありますね。
増渕 意見を聞いたら、それを取り入れようとします。聞くだけ聞いてスルーすることは、僕にはあまりできませんでした。だからというわけではないと思いますが、いろいろ考えすぎて、また自分を見失ってしまいました。
――2013年は5試合に登板し0勝。2014年の開幕直後、北海道日本ハムファイターズへのトレードが決まりました。
増渕 自分自身がわからなくなって、イップスになってしまいました。僕の場合、右ひじを痛めたことが少し影響していると思います。故障した箇所を意識しすぎ、コントロールを考えすぎて、自分の本来の腕の振りがわからなくなってしまいました。フォーム自体は変わっていません。ただ、腕の振り方、力の入れ具合が……。ピッチングの感覚をなくしてしまったのです。
――「どこにボールがいくのかわからない」という状態ですか?
増渕 ピッチング以外のフィールディング、バント処理や牽制球は問題ありません。遠投もできます。でも、マウンドに立ってプレートを踏んで「さあ、投げよう」とすると、ボールを持っている感覚がなくなって……始まっちゃうんですよね。
――原因に心当たりはありませんか?
増渕 直接的な原因は思い浮かびません。バッターにぶつけたことでもない。でも、気にしすぎて、キャッチボールもおかしくなりました。相手の胸にしっかり投げようとして「あ、抜けそう」と思って、指にひっかけすぎたことがあります。きっかけといえば、それですね。その負のイメージが頭に残ってしまったのだと思います。
もう、ごまかし、ごまかし投げていました。不思議なことに、変化球は大丈夫でした。ストレートだけがうまく投げられない。投げられることは投げられるのですが、自分のストレートではない。当然、球速も落ちました。
――増渕さんの生命線は力のあるストレートです。それを失ってしまっては、プロ野球では生き残れない……。
増渕 プロのバッター相手にごまかしは効きません。いろいろな人に相談しましたが、自分の感覚の問題なので、どうしようもない。自分自身が変わらない限り、イップスは治らない。つらかったですね。メンタルが原因なので、メンタルトレーニングにも通いました。でもメンタルがよくなっても、「ピッチングの感覚」を取り戻すことがどうしてもできない。僕は、イップスに勝てませんでした。それがなければ、ずっとプロ野球選手でいたかった。
――2014年は一軍登板なし。2015年も一軍のマウンドには立てず……。
増渕 ファイターズから戦力外通告を受けたとき、「仕方がない」と思いました。イップスを治すための努力は、最大限にしてきたつもりです。やることはすべてやったので、悔いはありません。引退するとき、このことにはまったく触れませんでした。理由を話すと、慰めの言葉を送られるかもしれない。そう思うだけでつらかった。だから、一切、口にしませんでした。それも含めて、自分の実力不足なので、そこは割り切っていました。
引退するとき、どんな選手も何かしらの悔いはあると思います。でも、過去を振り返っても意味がないと思っているので、後悔はありません。僕には、プロ野球で戦う資格がなくなった、それだけです。だから去るしかないと考えました。
――周囲も驚く、潔い引退でした。
増渕 僕は「ピッチングの感覚」が戻らない限り、プロで活躍できないと思いました。いつかは取り戻せると信じて練習に励みましたが、結局、できませんでした。ファイターズで一度も一軍で投げられなかったので、申し訳ないという気持ちはあります。僕のことを考えて、トレードという形でチャンスをつくってくれたスワローズには感謝しています。
――引退から2年経ちました。いまはどんな活動をしていますか?
増渕 僕は高卒で、プロ野球での実績もたいしたことはありませんが、プロで人間力を磨き、人脈以外にもさまざまな財産をいただきました。自分で会社をつくったのは、今後プロ野球から引退する選手のセカンドキャリアの支援をできればと考えたから。僕はみなさんからいただいたものを誰かのために役立てたい。
プロ野球は、毎年100人がクビになり、100人の新人が入団してくる世界です。プロの世界に飛び込むときには当然、不安もあるでしょう。プロを終わったあとでも「こういう生き方があるんだ」というものを示していきたい。次につながるセカンドキャリアを築いていけたらと考えています。
――引退後に自らの会社『King Effect』を立ち上げ、2017年4月、埼玉県上尾市に野球スクールを開校しました。
増渕 やっぱり、野球が好きなんですよね。プロ野球でいろいろなことを経験させてもらったので、プロ野球選手を目指す子どもたちに教えたいと考えるようになりました。野球人口が減っていると言われているいまだから、なおさらです。野球スクールでは小学生から中学生まで教えています。毎日がすごく充実しています。子どもたちに野球を教えることは簡単ではありませんが、僕は野球をもっともっと好きになってほしいと思っています。楽しく、野球に取り組んでほしい。
いろいろな人に教えていただいたことが役に立っています。厳しい世界で生き残るためには自分に厳しくしなければならない。特に宮本慎也さんの言葉は心に残っています。野球人として、人間としてのあり方は参考にさせていただいています。僕がどういう人間なのかはまわりの人が判断することなので何とも言えませんが、自分のいまの考え方をつくってくれたのはプロ野球です。チームのみなさんに育ててもらいました。プロに入って本当によかったと思います。