「自分はケガに悩まされました。プロ14年のうち10年、思い切りキャッチボールができない時期が続きました」と元プロ野球選手…

「自分はケガに悩まされました。プロ14年のうち10年、思い切りキャッチボールができない時期が続きました」と元プロ野球選手で現在、杜若(愛地)の監督を務める田中祐貴氏は振り返る。

「ユウキ」の登録名としてプレーした田中投手は高卒2年目から一軍で5勝、オリックスに移籍した02年は7勝。最速153キロ右腕として活躍したが、それ以降は肩の痛みに悩まされる現役生活だった。肩の痛みがありながら、どうやって一軍の打者を抑える投球術を作り上げたのか。

順調に階段を登ったが、故障に苦しむプロ生活に

———プロに入った選手の中には「レベルの高さに衝撃を受けた」という声もあるのですが、田中監督はどうだったんですか?

田中監督 実は1年目、大した成績を残していないのに、チームの二軍の投手を見て「結構いける?」と思いました。1年目の8月に二軍戦で先発投手として5連勝をして、ファームの月間MVPを獲得したんです。二軍のコーチからは「1ヶ月で5勝したら一軍にあげたるわ!」といわれたんですけど、上げてもらえませんでした(笑)。でも1年目から二軍でも成績を残せて「なんか思いの外、自分はできるな」と思ってしまったんですよね。一軍の世界を見れば、敵わない投手も多くいました。それでも、二軍にいる投手の中で、敵わない投手はいませんでした。

———それを言えるぐらい、成長はしていたということですか。

田中監督 プロ入り当時の最速は142キロでした。プロに入ると環境もかなり変わり、トレーニングの質、食事の質も高校時代と比べればかなり良くなりましたので、みるみると球が速くなりました。オリックスに移籍した02年には最速153キロまで伸びました。

 でも、プロ野球選手で一番活躍するために必要な能力は、怪我に強い体と怪我をしないための生活習慣、練習、ケアなどです。そういうことをトータルでできる人がプロ野球選手だと思います。その点でいうと自分は足りなかったと思います。もちろん投げるために身体を管理はしていたのですが「あの時こうしておけばよかった…」という後悔はあります。

もっとケアをしておけば怪我をしなかったはず。その点でいうと自分はプロではなかったと思います。

———高卒2年目から5勝するのはなかなかできることではないと思っています。

田中監督 プロ野球は、「ここで投げなければ、今後の一軍の道はない」という勝負どころがあるじゃないですか。そういう時は「痛い」と言いたくない。一軍に残りたいから、痛いと思っても投げてしまう。そこをもう少し考えていれば、もうちょっと現役生活は続けられたし、違う形になったと思っています。あの時、痛いのを我慢してローテーションを守るより、1、2勝を削ってでも自分の身体を守ることをしていれば、もっと違ったかも知れません。当時は「調子が悪いんで、痛くなる予感がするので、投げ込みは控えたい」といえる時代ではありません。コーチから『だったら二軍にいけ』といわれてしまいます。そういう環境の中で自己管理をしながら、実績を残した一流投手はすごい人ばかりです。

———近鉄時代には、名コーチと呼ばれた小林 繁氏が一軍投手コーチでしたね。

田中監督 小林さんの指導は本当に大きかったですね。走者の抑え方、いろんな打者との駆け引きも小林さんと話し合って臨みました。打者心理を把握するために、打者の動き、呼吸を見ながら投げるということまで教えてくれました。打者進路を探りながら投げるのは小林さんの指導が生きていると思います。

———故障との戦いがありながらもFA人的補償でオリックスに移籍した1年目の02年に7勝をマークしています。

田中監督 二軍だと何となく行けると思うんですけど、一軍は打者のレベルが遥かに違います。とにかく打者のレベル差が凄い。二軍だとストレートをど真ん中に投げてファウルにできるか、空振りを奪えるかが調子のバロメーターなんですけど、一軍だと低めのギリギリに投げて、ファウルがやっと取れるかのレベル。調子が少しでも悪いと、外角ギリギリの真っ直ぐを投げても、打ち返されます。

オリックス移籍後、肩の故障から球速もだんだん落ちていって、力で抑えることもできなくなっていました。プロの世界でも、平均的な能力だった自分がプロ野球の世界で生き残るにはどうすればいいか考えた時、この打者たちを抑えるには、ずっと調子が良いわけではないので、タイミングをずらす方法、スローボールを投げたり、ストレートの速度を変える、間合いを変えたりするのを考えるようになりました。

試行錯誤しながら生まれたスローボール

練習を見守る田中監督(杜若)

———オリックス時代の映像を見ると、スローボールをうまく使って抑えていますが、試行錯誤を重ねて生み出したスタイルなんですね。

田中監督 実は小学校の時からスローボールを投げていました。少年野球は変化球が禁止なので、面白くないんです。ずっと速球だと疲れてしまうので、スローボールだったらストレートと同じだと思って、投げていたんです。プロの世界でも故障前のときは、ストレートでもしっかりと押せていて、スライダー、フォークもコントロールよく投げることができていました。でも、故障もあって、力で押すことはできなくなった時、遅い球が必要かなと思って投げるようになりました。投げてみたら強打者はムキになるので、有効的な球種でした。

———振り返れば、当時のパ・リーグはかなりレベルの高い打者が揃っていましたね。

田中監督 当時のダイエーには松中信彦さん、西武にはカブレラ、日本ハムには小笠原道大さんなど、オリックスに移籍したあとは近鉄にはタフィ・ローズさん、中村紀洋さんと、

本当に怖い打者ばかりでした。オリックスに移籍してから、一軍で投げる機会も多くなりましたが、故障もあって、140キロそこそこまで落ちていた自分にとってスローボールは自分の色をつけるには有効でした。いろんな引き出しを持たないと生き残れない世界ですから。

———カブレラは巻き込んでレフトへ豪快なホームランという印象が強いです。

田中監督 彼は外角球が強かった。外角球に投げると投手ライナーが来るので、危なかった。インコースならば、空振り、内野フライ、ホームランという形でした。

——— 近鉄時代にはイチロー選手とも対戦しているんですよね。

田中監督 初対決でホームランを打たれました。難しいチェンジアップをホームランにされて、「レベルが違うな」と思いました。抑える球がないので、打ち損じを期待するしかありません。1回だけ三振に打ち取ったことがあります。これは一生自慢できる話ですね。外角の抜けたスライダーで三振に取ることができました。

試合以外ではほぼボールを投げなかった

———肩の痛みとの戦いの中で、どう調整していたんですか。

田中監督 試合以外、ほぼ投げなかったです。肩は痛くても、5回2失点、6回3失点とかなんとか試合は作れるんです。通常、先発だとたとえば日曜日に先発ならば、水曜日、金曜日などでブルペンに入って練習するのですが、僕の場合、痛くて入れなかったんです。オリックス時代はそれまでの実績もあって許されていました。だからゲームだけの肩なんですよね。キャッチボールもまともにできなくて、調子が良い時に50メートルぐらいの距離を投げるぐらいで、10年間、キャッチボールで思い切り投げたことがないです。

 僕は痛みに強かったのか、弱かったのかわかりません。ただ一つ言えるのは、僕ぐらいブルペンに入らなくて、一軍のローテーションにいる投手は見たことがないということ。だから能力が上がらないんです。春季キャンプで、僕も練習をしたかった。だけど肩を痛めてからは春季キャンプでも投げなかったです。

 ピッチングが上手くなるには、ある程度の球数を投げて、ケアをして、トレーニングをして、また投げてのサイクルが必要です。故障してからは、試合で投げるまで肩を温存することばかりに気を遣っていたので、上手くならないですよね。投手としての成長がなかったので、7勝をあげた02年以降、平凡な成績に終わりました。

———10年に現役引退時には、「1億円で故障しない肩があったら、ローンを組んででも絶対に買った。そのお金を返せる自信はあった」というコメントが反響ありました。

田中監督 それはオリックス時代のコーチが言ってくれた言葉なんですよね。オリックスに移籍してから、03年から04年まで肩の怪我で投げられなかった時期に、現在は東海大でコーチをしている酒井勉さんが二軍投手コーチでした。酒井さんから「お前は本当に良い投手なんだけどなぁ。お前、1億、2億で故障しない肩を変えたら、買うだろ?」とよく言われていたんですよ。それを思い出して、引退時にはこういうことを言われたなと思って、使わせてもらいました。

田中 祐貴(たなか・ゆうき)

1979年6月12日生まれ

愛知県豊田市出身。豊田シニアでプレーした後、豊田市の私学・杜若へ。2年生からレギュラーとなり、2年夏はベスト4、3年夏はベスト8に終わった。制球力の高い本格派右腕として評価され、近鉄5位指名。同球団に田中宏和投手がいたため、登録名「ユウキ」となった。高卒2年目の00年に5勝を記録、01年オフに加藤伸一投手が近鉄に移籍したため、人的補償選手としてオリックスに移籍。移籍1年目の02年に7勝を記録した。それ以降、肩の故障などもあり、最速153キロの速球で圧倒するスタイルから、スローボールを使う技巧派の投球スタイルにモデルチェンジし、先発、中継ぎとして活躍した。08年にヤクルトに移籍し、10年に引退を決めた。一軍での実績は119試合、28勝22敗1セーブ7ホールド。

 引退後、豊田市に戻り、アルバイトを務めたほか、スポーツジムなど自営業に。17年から帝京大可児のコーチに就任し、元中日の加藤翼投手、日本ハムの加藤大和投手と2人の投手をプロへ送り出した。22年4月に母校の杜若の監督に就任し、初の甲子園出場を狙う。