現在、全国各地で元プロ野球選手の指導者が増えてきている。その中で、この夏初の甲子園出場を狙うのが愛知・杜若の田中祐貴監督…
現在、全国各地で元プロ野球選手の指導者が増えてきている。その中で、この夏初の甲子園出場を狙うのが愛知・杜若の田中祐貴監督だ。現役時代は杜若のエースとして2年生夏ベスト4、3年生夏ベスト8と愛知を代表する本格派右腕として活躍。97年のドラフトでは近鉄から5位指名を受けた。近鉄、オリックス、ヤクルトの3球団でプレーし、通算28勝を記録。119試合登板のうち63試合が先発と、先発投手として実績を収めた。「ユウキ」の登録名で覚えている方も多いだろう。
現役引退後は帝京大可児のコーチを経て、22年4月から杜若の監督に就任。23年はベスト8、24年はベスト4と一歩ずつ階段を登ってきた。今回はそんな田中監督の野球人生を振り返る。
中学時代は補欠、高校時代も実力は10番目
———まず田中監督の高校時代の実績として、2年夏ではベスト4、3年夏はベスト8と愛知県内を代表する投手として活躍していますが、入学当初から期待されていた投手だったのでしょうか?
田中監督 いえ、その逆です。1年生のときはベンチ外でしたし、中学時代にプレーしていた豊田シニアでも補欠でした。だから野球で強い学校に行ける選手ではありませんでした。補欠でもいいから、愛知私学4強(愛工大名電、享栄、中京大中京、東邦)に行きたいと思っていたんですけど、実力はありませんでした。まだ体も小さかったですし、地元の豊田にあった杜若に行かせてもらうことになったんです。
———入学当時の田中監督の実力はどれほどだったんですか。
田中監督 当時は一学年30人ほどで、投手も17人もいました。実力で言えば、10番目ぐらいです。本当にレベルが低かったので、投球練習もさせてもらえない。たまに杜若グラウンドの奥の方に雑草ばかりのブルペンがあって、そこは立ち投げをしていました。メイングラウンドで練習はできませんでした。
でも、当時の高校野球は上下関係が厳しい環境でしたので、選手たちが辞めていくんですよね。自分より上手い投手がどんどん辞めていくので、立ち位置が上がっていきました。それで出る試合が増えていきました。
———最初はそんなスタートだったんですね。
田中監督 2年夏に愛知大会ベスト4にいきましたけど、当時のストレートは125キロ前後ぐらい。ストレートとスライダーだけでなんとかしていた感じです。しかもサイドスローだったんです。
———そこからいかにして高卒プロにいけるようになったんですか?
田中監督 30年前近くの話になりますので、あまりイメージできないかもしれませんが、当時の高校球界は135キロ以上投げられれば、速球派といわれるぐらいでした。140キロはもっと物珍しくなる。
だから僕にとっては時代が良かったかも知れないですけど、僕の同級生で、愛知高校からベイスターズに進む関屋 智義という速球投手がいました。140キロの速球を投げていて、「なんだこいつは?」という感じになるんですよね。どうしたらそんな速球が投げられるのかと思って、練習方法を調べたら、彼は岡崎のジムに通ってトレーニングしていると聞きました。実際、その現場を見たら、彼だけではなく、ほかの選手も黙々と練習をしているんです。この光景を見たら、自分もやらないといけないと思って、通常の練習後にトレーニングをしないといけないと思って、トレーニングをするようになったです。
———トレーニングを始めて、どう変わりましたか。
田中監督 取り組んだのは2年秋の県大会後からですが、一冬で体重が10キロ増えて、球速も10キロ上がったんです。夏前に140キロ投げられるようになってプロ野球選手になれる道筋ができ上がりました。
担当スカウトの電話でプロ入りを知る

———140キロのストレート以外に何か特徴的な武器はありましたか。
田中監督 今の時代はラプソードなどで投手の球質を数値化できますが、当時の自分はほかの投手よりも回転数が高く、コントロールもよくて、スライダーも切れる投手だったと思います。ただ単に140キロが出る投手ではなかった記憶があります。
———スカウトの方が注目するようになったのはいつからですか。
田中監督 6月からですからね。今のドラフト戦線だと遅いぐらいですね。毎年、県大会終了後に行われる全三河大会があります。そこで、豊川高校のグラウンドで豊川と試合をしたんです。当時、豊川には同じ年で近鉄3位指名され、高校通算34本塁打を記録した俊足強肩のスラッガー・森谷昭仁という外野手がいました。森谷が目当てのスカウトが多くいたんですけど、「杜若に急成長している投手がいる」と情報が入っていたらしいです。そこで僕は好投して注目されるようになりました。一番調子のよい時期だったんです。この試合までプロなんて頭になかったですね。
———最後の夏はベスト8でした。
田中監督 2年でベスト4にいった時は5連投をこなしました。ずっと投げていて、瑞穂球場のちょっと傾斜を上がるだけできついぐらい疲弊していて、限界でした。しかし、3年夏は余力がありました。くもり空も多くて、大差で勝てる試合も多かったので、あまり疲れずに勝ち進むことができました。個人的には最後の夏のほうが甲子園に行けるチームだったかなと思います。自分も球速も速くなって手応えはあったんですが……。
———最後の試合はどうでしたか?
田中監督 最後は美和高校に3対4。サヨナラ打を右中間に打たれて負けました。美和は前評判がそれほど高くないチームでした。ただ、この試合の美和は強く、やはり夏の甲子園がかかった夏の大会の怖さを感じるゲームでした。
———夏が終わって高卒プロにいける手応えはありましたか。
田中監督 いや、なかったですね。今のようにネットがないので、情報が全くなかったんです。ドラフト候補の情報を知れるのはスポーツ新聞が中心。ドラフト候補をランク別で紹介する企画の中で、自分はずっとCランクだったんです。ドラフトも遅くて、当時は11月でした。1週間か、2週間前になったら、いきなり自分がBランクになっているんです。Bランクは全国でも15人ぐらいしかいません。もしかしたら、プロに行ける…?と思うようになりました。
———当時はプロ志望届はありませんでしたが、もしプロ志望届があったら、出していましたか?
田中監督 出してないですね。社会人野球から内定をもらっていました。高校生の投手が社会人野球の内定はなかなか貰えることではないですから。
———指名があったことは嬉しさはありましたか?
田中監督 周囲が騒がしくなったのはドラフト前日です。それまで情報がなかったのが、一気に「指名されるかもしれない」という情報が僕の耳にも入りました。実際に近鉄から5位指名で、嬉しさというよりも、「プロから指名される話は本当だったんだ」という驚きのほうが強かったですね。ネットがない時代ですので、ライブ感がありませんでした。
テレビ中継も上位のみで、今のようにCS、ネット中継で最後まで放映する時代ではありません。プロ入りを知ったのは担当スカウトからの電話でした。平成9年(1997年)の話ですけど、今と比べるとぜんぜん違いますね。
———入学当初の立ち位置を考えると、信じられない話ですよね。
田中監督 いつも思うんですよ、入学した時は関係ないなと。最初から順風満帆というか、エリート街道にいく選手がプロに行く、と思いがちですが、僕の中学時代を知る人の誰もが僕がプロにいくと思っていないですから。高校に入った時、10番目ぐらいの投手でしたので、「こいつがエースになってプロ野球のドラフトにかかる」なんて誰も思っていないんですよ。自分自身がいけると思わなかったです。
早熟タイプの選手もいれば、自分のようにまだ背が伸び切っていない投手もいます。だから、成長は分からない。
だから選手たちにはこう伝えています。「俺は補欠で、高校入った時は110キロしか出なかった」と。いつ、どこで、どう成長するのかは分からない。努力をしなければ、急成長のきっかけはないと思います。
田中 祐貴(たなか・ゆうき)
1979年6月12日生まれ
愛知県豊田市出身。豊田シニアでプレーした後、豊田市の私学・杜若へ。2年生からレギュラーとなり、2年夏はベスト4、3年夏はベスト8に終わった。制球力の高い本格派右腕として評価され、近鉄5位指名。同球団に田中宏和投手がいたため、登録名「ユウキ」となった。高卒2年目の00年に5勝を記録、01年オフに加藤伸一投手が近鉄に移籍したため、人的補償選手としてオリックスに移籍。移籍1年目の02年に7勝を記録した。それ以降、肩の故障などもあり、最速153キロの速球で圧倒するスタイルから、スローボールを使う技巧派の投球スタイルにモデルチェンジし、先発、中継ぎとして活躍した。08年にヤクルトに移籍し、10年に引退を決めた。一軍での実績は119試合、28勝22敗1セーブ7ホールド。
引退後、豊田市に戻り、アルバイトを務めたほか、スポーツジムなど自営業に。17年から帝京大可児のコーチに就任し、元中日の加藤翼投手、日本ハムの加藤大和投手と2人の投手をプロへ送り出した。22年4月に母校の杜若の監督に就任し、初の甲子園出場を狙う。