「明大の4年間が今の野球人生につながってます」 元オリックスの中道 勝士(現社会人野球・ムラチ)は語る。 智弁学園で2度…

「明大の4年間が今の野球人生につながってます」

 元オリックスの中道 勝士(現社会人野球・ムラチ)は語る。

 智弁学園で2度の甲子園出場を果たした中道は、高校日本代表を経験。スポーツ推薦で明治大野球部へ入部した。同級生には中日・柳 裕也投手(横浜)、DeNA・佐野 恵太外野手(広陵)がいた。副主将も務めた名門での4年間を振り返ってもらった。


大阪桐蔭の強打者に憧れて、明大進学を志す

———どういうきっかけで明治大学に進まれたのですか?

中道 センバツが終わったタイミングで決まっていたと思います。高校に入学した時点から「明治大学に行きたい!」とずっと希望していました。でも小坂監督は法政大出身ということは知らなくて、「明治大に行きたい」と言ったら「俺は法政大やぞ!」と言われたことは覚えています(笑)

———なぜ明大がいいと思ったんですか。

中道 05年の大阪桐蔭で、強打の2番打者として活躍した謝敷 正吾さんがとても好きな選手だったんです。テレビで謝敷さんのバックスクリーン弾を見ていて、めちゃくちゃかっこいいなと思って、それから謝敷さんを追いかけていたら、明治に進んだことが分かって、明治の試合を見るようになりました。そこから明治が好きになりましたね。
 ドラフト会議では、仲が良かった佐野の指名も気になっていましたね。佐野とは学部が同じ商学部でした。佐野は下級生からベンチ入りしていて、なかなか授業に出席できないので、ノートを見せたり、自分が出席できない時は代わりにカバーしてもらったりと、お互いが助け合いながら、学生生活を送っていたんですよね。当時から打撃はすごかったですが、何より肩が非常に強い。あまり語られていませんが、強肩でした。

明治大時代の佐野 恵太

———しかし明大の4年間では通算試合数は10試合となかなか出られない時期が続きました。

中道 本当に明治は競争が激しかったチームでした。全国から選手が集まっていて、スポーツ推薦だけではなく、一般入試、指定校の選手たちも良くて、ライバルが多かったと思います。捕手については1学年上には阪神に進んだ坂本誠志郎さんがいて、同級生には牛島将太(JR九州)がいて、かなりしんどかったですが、良い思い出になりました。

———特に苦しんだことはなにかありましたか

中道 1球の大切さ、1球の怖さを嫌と言うほど叩き込まれました。当時率いてた善波 達也監督の野球はまさにそういう野球でしたので。

———4年春は代打中心ですが、10打数3安打と活躍していますね。

中道 打撃は善波監督からも評価されていて、試合に出してもらえることができました。

———どんな形でプロ入りをされたのですか。

中道 試合にもそれほど出場していないので、まさかスカウトの方が見ているとは思わなかったんですよね。エースの柳、速球派の星 知弥くん(ヤクルト)、仲が良かった佐野もいましたし、1学年下には西武ドラフト1位となった齊藤大将(元ソフトバンク)もいました。そういう選手たちが多く揃っていた中、まさか自分を見ていただいているとは思わなかったですよね。それでもオリックスさんが評価してくれていて、プロ志望届を提出して、育成という形で入ることができました。

明治大時代の柳 裕也

柳には「ついていきたい」と思うだけの人間性がある

———現在はDENA主砲へ成長した佐野選手ですが、ここまでの話を聞くと、人望がとても厚い方ですね。

中道 そうです。とても良いやつです。さらにレスポンスが早いんですよね。人間的にも頼りになります。

 僕も少しだけプロにいたので、色んな方から「誰々のサイン、用具をもらって」とお願いされることがあるんです。とても面倒なことですよね。商売道具ですし、彼らも忙しいので、そのたびに断っているんですけど、それでも佐野のサインをどうしても欲しい方がいて、佐野に「大変申し訳無い、頼む」とお願いすると、「ええで」と応じてくれましたね。

———主将でエースだった柳 裕也投手は明大でもリーダーシップを発揮されていますね。

中道 立派な主将です。僕は4年春に一度だけ怒られたことがあります。僕と佐野が副主将で、柳は投手なので、僕ら2人に「野手のことは見られないので、お前ら頼むわ」とお願いされて、僕と佐野が仕切っていました。ある日のノックで僕がエラーした時、柳から「そんなんじゃダメだろ!」と叱られたんです。絶対ついていこうと思いましたね。同級生になかなか怒ることは難しいですし、気持ち的にしんどいですよね。心を鬼にして叱ってくれた柳についていこうと決めました。4年のとき、明治神宮大会に優勝できたのも柳のキャプテンシーがなければできなかったと思っています。


———中日でリーダー的存在なのも納得ですよね。

中道 現在は選手会長をやっていますが、大学時代の柳を知っている僕らからすれば納得です。先日、中日の若手投手と食事にいった時、その投手から「柳さんは人として尊敬しています。柳さんからプロ野球として必要なことを一から十まで教わりました」と語ってくれて、流石だなと思いました。

———投球についてはやはりコントロールが素晴らしかったのでしょうか

中道 コントロールの良さは次元が違いますね。狙ったところにしっかりと投げられました。そして伸びがすごくて、140キロ後半ですっと伸びてくる球質なんです。ワンバウンドかなと思ったら、そのまま伸びて、キャッチャーミットに収まっていました。

 カーブはドロップカーブのような軌道を描きますし、チェンジアップの精度も高い。リードしていて楽しい投手でしたね。構えたところに来ますので。

———仲間にも恵まれた明大での4年間でしたね。

中道 明治に進んで良かったと思っています。どこにいっても明治OBということで、先輩の方々、関係者の方々にも助けてもらいます。こうして野球を続けられているのも、明治大OBの助けがあります。

 現在も明治大の後輩にも挨拶をもらいますし、縦のつながりはすごいなと実感します。

中道 勝士(なかみち・かつし)

1994年4月30日生まれ。右投げ左打ち。柏原ボーイズ時代は捕手としてAA代表を経験し、藤浪晋太郎投手とチームメイトだった。智弁学園では1年春からベンチ入りし、1年夏に5番ライトでスタメン出場。その後は強打の捕手として元オリックスの青山大紀投手とバッテリーを組んで、2年夏(11年)の甲子園でベスト8、3年春(12年)にも出場した。明治大では4年間で10試合出場にとどまったが、副将として16年の大学選手権出場、明治神宮大会優勝を経験した。試合出場機会は少なかったが、打撃力を評価され、オリックスから育成5位指名を受ける。入団後に患った厚生労働省指定の難病の潰瘍性大腸炎の影響で2年目で退団。その後、オーストラリアの独立リーグを経て、19年は関西独立リーグの堺シュライクスで一度目の引退。その後は焼肉店を立ち上げたが、持病を考慮し、店長を退き、奈良県の野球教室でコーチをしていた。22年から北東北大学野球連盟のノースアジア大学でヘッドコーチを1年半務めた。コーチ退任後、24年1月に社会人野球に加盟したムラチグループに入社し、野球部の初期メンバーとして一からチームを作り上げた。現在は社業では営業マン、チームでは選手兼任チーフマネージャーとして首脳陣、後輩選手から頼られる存在として活躍した。6月に引退を決断し、ヘッドコーチに就任した。