2012年、韓国で開催された第25回AAA世界野球選手権大会に出場した高校日本代表(AAA代表)は豪華なメンバーだった。…

2012年、韓国で開催された第25回AAA世界野球選手権大会に出場した高校日本代表(AAA代表)は豪華なメンバーだった。春夏甲子園連覇を果たし、世代NO.1剛腕と呼ばれた大阪桐蔭・藤浪 晋太郎投手、夏の岩手大会で160キロをマークした花巻東・大谷 翔平投手(ドジャース)らドラフト1位指名を受けた選手が4人もいた世代だった。

 そんな逸材たちと一緒にプレーしたのが元オリックスの中道 勝士(現社会人野球・ムラチ)だ。智弁学園では2度の甲子園出場し、高校通算26本塁打の強打の捕手として評価されていた中道は最後の夏は甲子園を逃しながらも、代表入りを果たしていた。当時の代表選手たちをどう見ていたのか。その素顔を語ってもらった。

森友哉は甘え上手

———中道さんはどういうきっかけで高校日本代表に選ばれたんでしょうか。

中道 夏の奈良大会で負けて、引退した自分たちは夏休みで遊んでいる時でした。甲子園の大会期間中に(智弁学園の)小坂監督さんから電話で「高校日本代表に選ばれたから練習しておけ」と連絡がありました。驚きましたが、監督から続けて「行け!今後の野球人生でタメになるから」と言われたので、僕は「はい!」というしかありません。練習をして、代表に合流しました。

———改めてこの代表はすごかったですね

中道 高校からドラフト1位になった大谷、藤浪、元中日の濱田 達郎、元広島の高橋 大樹がいて、さらに元中日の岡野 祐一郎、社会人では昨年引退した笹川 晃平(浦和学院)もいました。笹川と同じ浦和学院の佐藤 拓也もいて、すごいメンバーでしたね。いろんな選手と仲良くなれて、代表に選ばれて良かった大会でした。

———また同じ捕手には1学年下の森 友哉捕手(大阪桐蔭-西武-オリックス)がいましたね

中道 僕は森と同部屋だったんですよ。森がいてとてもやりやすかったですし、弟と呼べるぐらい可愛くて、いい奴でした。甘え上手なところもありました。ずっとタメ語まじりなんですけど、それも許せるぐらい愛嬌もあるヤツでした。結構、イカついヤツに見られていますけど、性格はとても良くて、気遣いもできます。

———たとえばどんな気遣いがあったんですか?

中道 大会は韓国で開催されていたので、海外の食事が合わず、食べられなかったんですよ。同部屋の森は日本食を結構持ってきてくれていて、「中道さん、これ食べてください」といってくれて。さらに捕手道具も管理するのが僕たちの役割ですが、それについても「中道さん、僕が磨いておきますので、大丈夫です」と言ってくれるですよね。タメ語がありながらも、率先してくれて気遣いをしてくれるとても良いやつでした。

———藤浪投手の球はどうでしたか。

中道 中学の時よりもとてもすごくなっていました(注:中道は中学時代、同じ大阪で藤浪の投球を見ていた)。球速がかなり速い上に、手足も非常に長いので、マウンドの手前にいるんじゃないかと思わせるぐらいの威圧感がありました。受けていて、後退りしたくなるほどの怖さがありました。真っ直ぐはズドンと来て、カットボールも凄い精度でしたね。

———人間的には印象を受けましたか。

中道 ピッチング、私生活すべてにおいて自分の考えをしっかりと持っています。そういう意味では大人びた選手でした。

ワンバウンドを捕るたびに「ありがとう」

———大谷投手の球も受けられていますよね

中道 僕は最後の5位、6位決定戦の韓国戦でスタメン出場したんですけど、その時に大谷が登板。154キロが最速でした。すごかったの一言ですね。間合いだったり、決め所は必ず外さないコントロールの良さもありました。ストレートはもちろんですが、スライダーの切れ味がすごかったですね。

———打撃はどうでしたか

中道 打撃ももちろんすごかったです。木製バットでバックスクリーンに放り込んでいました。金属から木製に代わったばかりで、なかなか対応できない選手たちが多い中、すごかったです。大谷と森だけでバックスクリーンに打ち込んでいました。自分たちが練習をしていた球場は韓国のプロ野球でも使用されていて、センターは120メートル以上もあるんですが、軽々と放り込んでいました。森はまだ2年生なのに、左中間へ運んでいました。打撃に関してこの2人は別格でした。

———キャラクターはいかがでしたか。

中道 とても優しかったですね。気遣いができる投手でした。僕が忘れられないのは彼とバッテリーを組んだ時、ワンバウンドで三振を取った時、アウトにするじゃないですか。大谷は「ありがとう!」といってくれるんですよね。それも一度だけではなく、ワンバウンドで三振に打ち取るたびに言ってくれるんです。すごいヤツだなと思いました。その姿勢は今も変わらずですから、日本中のファンが応援するのも納得です。

中道 勝士(なかみち・かつし)

1994年4月30日生まれ。右投げ左打ち。柏原ボーイズ時代は捕手としてAA代表を経験し、藤浪 晋太郎投手とチームメイトだった。智弁学園では1年春からベンチ入りし、1年夏に5番ライトでスタメン出場。その後は強打の捕手として元オリックスの青山大紀投手とバッテリーを組んで、2年夏(11年)の甲子園でベスト8、3年春(12年)にも出場した。明治大では4年間で10試合出場にとどまったが、副将として16年の大学選手権出場、明治神宮大会優勝を経験した。試合出場機会は少なかったが、打撃力を評価され、オリックスから育成5位指名を受ける。入団後に患った厚生労働省指定の難病の潰瘍性大腸炎の影響で2年目で退団。その後、オーストラリアの独立リーグを経て、19年は関西独立リーグの堺シュライクスで一度目の引退。その後は焼肉店を立ち上げたが、持病を考慮し、店長を退き、奈良県の野球教室でコーチをしていた。22年から北東北大学野球連盟のノースアジア大学でヘッドコーチを1年半務めた。コーチ退任後、24年1月に社会人野球に加盟したムラチグループに入社し、野球部の初期メンバーとして一からチームを作り上げた。現在は社業では営業マン、チームでは選手兼任チーフマネージャーとして首脳陣、後輩選手から頼られる存在として活躍した。6月に引退を決断し、ヘッドコーチに就任した。