元オリックスの中道 勝士(現・ムラチ)は94年生まれの「大谷翔平世代」。中学・高校と日本代表に選ばれた、世代を代表する選…

元オリックスの中道 勝士(現・ムラチ)は94年生まれの「大谷翔平世代」。中学・高校と日本代表に選ばれた、世代を代表する選手だった。現在は社会人野球チーム・ムラチでヘッドコーチを務める中道が、最も輝いたのが、智弁学園時代。2年夏、3年春に甲子園出場し、高校通算26本塁打の強打の捕手として活躍した。当時の思い出を振り返ってもらった。

第1回

ずっとライバル視していた

———U-15代表も経験した中道さんはどういうきっかけで智弁学園に進んだのでしょうか?

中道 ありがたいことにいろんな学校からお誘いいただきましたが、その中でも熱心に誘っていただいたのは智弁学園です。中学3年生のとき、小坂監督が試合を見にきていただいたんです。でも、力が入りすぎて、4打数0安打に終わってしまって……。その試合、ホームランも打っている選手がいたので「その選手が推薦されるんだろうな。僕は厳しいかな」と思いました。

 球場から帰る途中、父親に「今日の結果では智弁学園の推薦もらえそうにないな」と嘆いていたんですが、後日、智弁学園から推薦をいただけることになったんです。後から聞くと結果ではなく、打席の雰囲気などを気に入ってもらえたようです。

 智弁学園に行きたいと思ったのは、ある時、僕の父親が小坂監督にある質問をして、その監督の返答を聞いたからなんです。

———どんな言葉があったんですか

中道 小坂監督は当時30代でしたが、智弁学園は長きに渡って強豪に君臨しているチーム。結果が出せなければ、監督を退く可能性があります。父親が「監督は坊主(中道氏)がいる高校3年間、監督を続けることはできますか?」と質問したところ、監督は「分かりません。でも僕は死ぬ気でやります」と言ったんです。その言葉を聞いて、この人とやりたいと思いました。ずっと忘れられないですね。卒業した後も小坂監督に電話で連絡して、報告することがあるのですが、その言葉を思い出します。

———智弁学園に進むと、元オリックスの青山大紀投手とチームメイトになります。青山投手とは中学時代から知っていたのでしょうか?

中道 中学時代から知っていて、青山がいた葛城JFKボーイズと1回対戦したこともあって、コテンパンにやられました。中学生なのに、フォークを持っていたんですよ。しかもしっかりと操れるので、打てないじゃないですか。対戦した試合では完封負けしたんです。

———青山投手は高校1年生の時から140キロぐらいの速球を投げていて、メディアではスーパー1年生として取り上げられていましたね。

中道 入学してすぐの春季大会では青山と僕だけベンチに入らせてもらいました。青山が準々決勝で出て、僕はベンチ。ヒットも青山が先に出て、それが悔しくて。そのあと、準々決勝から準決勝まで1週間空いたんです。その間になんとかしてやろうと思いました。

 準決勝の相手はセンバツにも出場した天理です。当時は最強世代と呼ばれていて、野手にはロッテの中村奨吾さん、エースには左腕・沼田 優雅さん(立正大-NTT東日本)と、投打に選手が揃っていました。

 前日の自主練習で素振りをしているとき、監督に意を決して「スタメンに出たい」と直訴したんです。すると「スタメンに出す」といってくれて……。心の中で「よっしゃー」となりました。

 当時の天理には150キロぐらいの速球を投げるピッチャーが揃っていました。最速152キロ右腕の西浦 健太さん(法政大)、2年生だった西口 輔さん(立命館大)も速い投手でした。沼田さんは決勝戦に備えて先発はしなかったですけど、自分はその試合では5番打者でスタメン出場して、三塁打も含めて3安打を打った。この試合をきっかけに1年夏の決勝戦までスタメンで起用してもらうことになりました。

———2010年の夏の大会以降から青山投手、中道さんの1年生バッテリーがメディアでも注目されるようになりましたね。

中道 当時は悔しい気持ちでいっぱいでした。絶対、どの記事も青山がピックアップされていましたので。ずっと「青山に負けてたまるか」という気持ちでした。今こそ青山の存在があったからこそ、ここまで成長できたと思っていますが、当時はずっとライバル視していました。

高校時代の青山大紀投手

最後の夏…試合は記憶に残ってない

———捕手から見て青山投手はどう見ていましたか。

中道 すごかったですね。何が凄いかといえば、高校生なのにフォークを操れることですね。だから投球の引き出しも広かった。

 性格的にもしっかりと自分を持っていて、上達のために自ら考えて取り組んで、実行できる投手でした。案の定、大学にいかず、トヨタ自動車に進んでプロ入りをしました。高卒か社会人でプロ入りするのは難しいことですし、凄いヤツだなと思っています。



———2年夏には甲子園ベスト8に進出しますが、青山投手もそうですが、中道さんの活躍も大きかった大会でした。

中道 夏の甲子園ベスト8は青山の活躍が大きかったですね。彼のすごいところは投げて抑えるし、打っても凄い。僕は「打率だけは負けられん!」と思いながらやっていました。その後記録は塗り替えられたんですけど、高2の夏の奈良県予選で僕らはぶっちぎりで優勝したんですよ。ほとんどがコールド勝ち。

 当時、大会新記録となるホームラン10本打ったんですけど、僕が3本で、青山が3本。同じ本塁打数で、悔しかった記憶があります。

———当時の智弁学園は青山投手、中道さんのバッテリーに加えて、小野燿平投手(現イワキテック監督)もいましたね。

中道 小野はまだ2番手投手でした。たまに外野に出ていて、本格的に投げるようになったのは2年秋からですね。140キロを超える速球はありましたが、良かったのはスライダー。あのスライダーは高校生は打てないですね。チームは良い感じで近畿大会優勝できましたね。

———神宮大会にも出場して、冬の間、チームではセンバツ優勝を狙う雰囲気だったんですか。

中道 狙っていましたね。頂点をとるために練習に取り組んでいました。

———ただセンバツでは2回戦敗退に終わりました。

中道 夏の甲子園とはギャップを感じていました。2年夏は横浜を倒してベスト8までつながったんですが、対戦相手の横浜はすごい応援だったんですよね。だから夏の雰囲気のままで臨んだら、センバツは夏とは違う独特な雰囲気だったんですよ。ギャップに驚いて、寒いですし、戸惑いも多かった大会でした。初戦の早鞆戦では小野が2ランを打ってくれて救世主になってくれましたが、思うように行かずに終わってしまった大会でした。

———3季連続甲子園出場がかかった夏の大会は準決勝で畝傍に3対4で負けてしまいました。

中道 なかなか苦しい大会でした。僕1人で勝手に自分を追い込んでチームに迷惑をかけてしまいました。準決勝のあの試合だけ記憶がないですよね。悔しい幕切れでした。

中道 勝士(なかみち・かつし)

1994年4月30日生まれ。右投げ左打ち。柏原ボーイズ時代は捕手としてAA代表を経験し、藤浪晋太郎投手とチームメイトだった。智弁学園では1年春からベンチ入りし、1年夏に5番ライトでスタメン出場。その後は強打の捕手として元オリックスの青山大紀投手とバッテリーを組んで、2年夏(11年)の甲子園でベスト8、3年春(12年)にも出場した。明治大では4年間で10試合出場にとどまったが、副将として16年の大学選手権出場、明治神宮大会優勝を経験した。試合出場機会は少なかったが、打撃力を評価され、オリックスから育成5位指名を受ける。入団後に患った厚生労働省指定の難病の潰瘍性大腸炎の影響で2年目で退団。その後、オーストラリアの独立リーグを経て、19年は関西独立リーグの堺シュライクスで一度目の引退。その後は焼肉店を立ち上げたが、持病を考慮し、店長を退き、奈良県の野球教室でコーチをしていた。22年から北東北大学野球連盟のノースアジア大学でヘッドコーチを1年半務めた。コーチ退任後、24年1月に社会人野球に加盟したムラチグループに入社し、野球部の初期メンバーとして一からチームを作り上げた。現在は社業では営業マン、チームでは選手兼任チーフマネージャーとして首脳陣、後輩選手から頼られる存在として活躍した。6月に引退を決断し、ヘッドコーチに就任した。