高校野球の育成と発展に貢献した指導者に贈られる「育成功労賞」に、県内からは佐相真澄さん(故人)が選ばれた。20年間、県…
高校野球の育成と発展に貢献した指導者に贈られる「育成功労賞」に、県内からは佐相真澄さん(故人)が選ばれた。20年間、県立の川崎北と相模原で監督を務め、強豪の私立がひしめく神奈川で好成績を残したことが評価された。
佐相さんは日体大を卒業後、中学校教諭に。3校を全国大会出場に導き、「中学軟式野球の名将」と呼ばれた。
高校への異動を希望し、2005年に川崎北へ。14年から相模原で指導し、15年春の県大会で準優勝、19年夏の神奈川大会では横浜を破って4強入りした。昨年12月まで相模原の監督を務めたが、1月にがんで66歳で亡くなった。
表彰式には息子の法政(東京都)の佐相健斗監督(34)が出席した。遺影を手に持ち、打者のイラストが刺繡された父の形見のネクタイを身につけていた。スタンドの相模原の生徒からは「いいぞ、いいぞ、真澄」と声援が送られた。
健斗さんは川崎北で野球に打ち込み、指導者としての父を見てきた。
家では、楽しい話をして、よく笑う父親だったが、「グラウンドでは本当に厳しかった。ミスを許さず、熱心な指導をしていた」と振り返る。佐生さんは元々左打ちだが、野球選手は右打ちが多いと、右打ちでノックをしていたという。
保護者や選手との会話も大切にした。当時は部員が約120人いたが、「1人ひとりのコンディションを応援にきた保護者に話していた」。
相模原では、チームだけではなく、学校のグラウンドの設備や応援団の態勢を整えた。「環境は人をつくる。その環境は人がつくる。いい人材を育てるためにもいい環境が必要だ」と話していたという。
もう1つ、大事にしていたたのは「束になる」という言葉だ。19年夏に横浜を破ったときは、大声援のもと、みんなで1つの方向を向いていたという。
健斗さんは2020年から法政の野球部監督を務めている。
指導に悩んで相談すると「軸となる信念を持て」と言われた。「人間育成のために野球を教えていると思い出した」
健斗さんは表彰式後、報道陣に「父はまとめる力がありました。自分が苦労しているところです」と話した。「最後の『真澄コール』のように、父は子どもたちに支えられた野球生涯だった」と話していた。(小林日和)