「投手の目的は勝つこと!」 三重県伊勢市の宇治山田高校。グラウンド脇にあるホワイトボードに、そう記されている。戦時中に…

 「投手の目的は勝つこと!」

 三重県伊勢市の宇治山田高校。グラウンド脇にあるホワイトボードに、そう記されている。戦時中に手榴弾(しゅりゅうだん)の投げすぎで肩を痛めても、フォームを変えて野球を続けた名投手・沢村栄治(1917~44)への思いを、渡辺侑也監督(35)が記した一文だ。

 三重県松阪市で育った渡辺監督が沢村にあこがれ始めたのは、小学生のころ。プロ野球に関心を持ち、巨人の歴史を調べていたら、背番号14が永久欠番になっており、その沢村が、伊勢市出身であることを知った。生家跡などをたずねるうちに、身近に感じるようになった。

 中学の時は内野手だったが、入学した津西で「投手がやりたい」と監督に直訴すると、すんなり認められた。約80人いた大所帯の部員のうち、約30人が投手。そんな中で、制球力をつけて頭角を現し、3年生では背番号1をもらった。

 進学した高知大では、背番号14を選んだ。1年生ですぐにエースとなり、四国地区の大学リーグで最多勝利を獲得したが、投げすぎがたたって肩を壊した。最後の試合となったのは、3年春のリーグ開幕戦。速球が投げられず、ひたすら遅い球でかわし続け、愛媛大に勝った。

 高校生へは「けがを避けるために、異状を感じたら投げないように」と指導している。ただ、その時の最善の方法でチームに尽くし続けるという姿が、自分と沢村とが重なっているように思えた。

 左足を高く上げる豪快なフォームで、伝説の速球投手と名高い沢村。その投球スタイルから、プロ野球で最も活躍した先発完投型投手に毎年贈られる「沢村賞」は、投手の最も名誉ある勲章と言われる。

 職業野球選手の時に徴兵され、中国戦線で手榴弾投げ大会に頻繁にかり出されて、右肩を痛めた後は、上手投げから肩に負担が少ない横手投げに転向した。その後、巨人を退団して3度目の軍隊生活に入り、1944年12月、乗っていた軍隊輸送船が撃沈され、27歳で戦死した。

 「光の部分だけじゃない。沢村を死に追いやった時代背景も伝えたい」と渡辺監督。ダイムスタジアム伊勢で練習試合があった後は、機会があれば球場入り口にある沢村の胸像の前に選手らを集め、沢村への思いをつないでいる。

 福永辰樹主将(3年)は「今は平和な時代だから野球が思う存分できる。試合で何点負けていても、決してあきらめないことを、沢村投手の生き方から学んだ」と話す。

 渡辺監督はさらに、担当する日本史の授業でも「戦争で沢村は好きな野球ができなくなった」と平和の尊さに触れ、戦後のプロ野球再開はGHQ(連合国軍総司令部)が国民に娯楽を提供するための占領政策の一環だったことも教えている。 

 宇治山田を率いて5年目の渡辺監督にはもう1人、背中を追う人がいる。津西の時、投手への挑戦を認めてくれた村田治樹・現宇治山田商監督(54)だ。「野球でも授業でも、全力で挑むことを教えてくれた。隣の高校で監督になれたのは幸運。村田監督には今も学び続けている」

 宇治山田は、旧制三重四中だった15年、第1回全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会)に出場した伝統校だが、以降は全国大会への出場はない。「沢村の故郷から甲子園へ」。110年越しの全国大会への挑戦が、まもなく始まる。(本井宏人)