いま、野球界ではドジャース・大谷翔平投手を中心とした94年生まれの世代が活躍している。MLBではカブスの鈴木誠也外野手、…
いま、野球界ではドジャース・大谷翔平投手を中心とした94年生まれの世代が活躍している。MLBではカブスの鈴木誠也外野手、去就未定の藤浪 晋太郎投手(大阪桐蔭)、NPBでは中日のエース・柳 裕也投手(横浜)、阪神の主砲・大山 悠輔内野手(つくば秀英)など球団の核として活躍している選手が多い。
この“大谷世代”の一人で、社会人野球を舞台に都市対抗を目指していた元プロ野球選手がいる。中道 勝士である。元オリックスの中道は現在、滋賀県で活動する社会人野球チーム・ムラチのヘッドコーチとして若手選手を牽引している。中道はかつて現在のU-15代表、U-18代表にあたるAA、AAA代表に選出された過去を持つ。大谷、藤浪らとともに当時の世代を代表する選手の一人だった。今年の5月の都市対抗予選まで現役捕手としてプレーした後、引退を決断。6月28日に引退試合を行い、ヘッドコーチに就任した。
中道は「僕がプレーしていた関西地区の中学硬式野球は全盛期だったと思います。藤浪のほかに、北條(史也・元阪神)、田村(龍弘・ロッテ)もいて、今思えばすごい時代でした」と振り返る。当時の関西中学野球事情を語ってもらった。
北條、田村の名は轟いていた

———現在も捕手として現役の中道さんは、野球を始めた時からずっと捕手をやられていたんですか?
中道 少年野球のときはショートでしたし、ショートというポジションが好きでした。ただ、チーム事情で小、中、高校でも捕手をやることになりました。
———柏原ボーイズでプレーされていましたが、当時はどんな活躍をされてましたか。
中道 柏原ボーイズは自分の自宅から車で30分ぐらいの場所にありました。小学校6年生の時にチーム事情で捕手をやっていたんですが、中学ではショートをやりたかったんです。だからショート用の硬式グラブをオーダーしてもらって、最初はショートで入ったんです。
ただ同学年にすごい守備の上手いショートがいたんです。「これでは試合に出られない」と思ったんですけど、当時の監督に打撃を評価してもらっていました。試合に出るにはどのポジションがいいかとなった時、チーム事情で、捕手がいませんでした。そこで小学校時代に経験のある自分が捕手をやることになりました。
当時の柏原ボーイズは1学年10人前後しかなかったのですが、僕達の代だけで22人入ったんです。結構実力のある選手も揃っていて、“黄金期”と呼ばれていました。僕らは上級生の人数が少なくて、僕らの人数が多かったので、下級生の時からメインのチームで試合に出場していました。
———中道さんと同じ大阪や近畿でプレーしていたボーイズの選手は結構プロに進んだ選手が多かったですね。
中道 藤浪はもちろん、北條、田村は、パナソニックの主力投手・城間 竜兵(光星学院-東北福祉大)も大阪ですね。
———北條、田村の両選手も中学時代から有名で、田村選手は投手だったようですね。
中道 当時からあの2人はすごかったですね。この2人がプレーしていた大阪狭山ボーイズは僕とは支部が違うので、あまり対戦する機会はありません。それでも噂に入るほどでしたね。結構、「田村がすごい」という声はありましたが、僕は北條の方がすごいという記憶があります。たまたま見た試合で北條がホームランを打っていて、だから記憶に残っていると思います。
藤浪、高橋とその後、プロ入りする選手も揃っていた当時の中学日本代表
———藤浪投手とは面識があったんですか?
中道 なんか「でっかいピッチャーおるな」というのは知ってたんですよ。藤浪がいた大阪仙北ボーイズとは対戦したことがあるんですけど、その試合で藤浪は投げていないんですよね。中学3年のとき、中学の日本代表に選ばれて、チームメイトになり、間近で見ることになりました。当時は今のような剛腕という印象はなくて、「ただでかい」という印象がありました。
———当時の藤浪投手の中学時代の映像が上がっていましたが、まだ130キロ前後ぐらいでしたね。
中道 球速はそれほど出てなかったのですが、角度はありました。でも当時から身長は190センチ以上ありましたから、長身を活かした球筋で捕手から見ても打ちにくい投手でした。ただ、藤浪が当時から世代NO.1だったかというと、そうではなかったと思います。藤浪は高校で再び一緒に代表になりましたが、別人のようにすごい投手になっていました(笑)
———この中学代表では元広島の高橋 大樹選手(龍谷大平安)もいましたね。
中道 高橋は中学時代、捕手をやっていて、長打力のある選手でした。高橋とは高校の日本代表でも一緒になったので、仲の良い選手です。
———オリックス、中日でプレーしていた武田 健吾選手(自由ケ丘)もいましたね。
中道 そうです。タケちゃん(武田)も一緒にいて、オリックスで再会することになったのですが、当時は投手もやっていて、投打ともすごい選手でしたね。彼とは「(高校は)どの学校にいく?」みたいに話す間柄でしたね。
———桐蔭学園に進んだ横塚 博亮投手もいましたね。当時はスーパー中学生と騒がれていました。
中塚 当時の中学日本代表のエースは藤浪ではなく、横塚でした。中学3年で140キロを超える速球を投げていました。当時のこの世代を知る人はみんな横塚のことを凄い、凄いといっていますけど、自分もこういう投手がプロ行くんやと思いましたね。当時、中学3年で140キロを超えるというのに衝撃を受けましたから。
横塚に加えて、尼崎北シニアの藍畑秀孝(神港学園)という左腕がいました。この2人の2枚看板でしたね。
———中学の代表選手を見ていくと、関西の選手も多くて、そして、代表に選ばれなくても北條、田村とプロに進んだ選手も多い。当時の関西中学球界はまさに黄金時代ですね
中道 シニア、ボーイズにもすごい選手たちがいました。智弁学園でプレーする青山(大紀)は葛城JFKボーイズで、フォークがすごい投手でしたし、当時の大阪と関西地区は中学の硬式だと全国の中でも一強だったと思います。
(続く)
中道 勝士(なかみち・かつし)
1994年4月30日生まれ。右投げ左打ち。柏原ボーイズ時代は捕手としてAA代表を経験し、藤浪晋太郎投手とチームメイトだった。智弁学園では1年春からベンチ入りし、1年夏に5番ライトでスタメン出場。その後は強打の捕手として元オリックスの青山大紀投手とバッテリーを組んで、2年夏(11年)の甲子園でベスト8、3年春(12年)にも出場した。明治大では4年間で10試合出場にとどまったが、副将として16年の大学選手権出場、明治神宮大会優勝を経験した。試合出場機会は少なかったが、打撃力を評価され、オリックスから育成5位指名を受ける。入団後に患った厚生労働省指定の難病の潰瘍性大腸炎の影響で2年目で退団。その後、オーストラリアの独立リーグを経て、19年は関西独立リーグの堺シュライクスで一度目の引退。その後は焼肉店を立ち上げたが、持病を考慮し、店長を退き、奈良県の野球教室でコーチをしていた。22年から北東北大学野球連盟のノースアジア大学でヘッドコーチを1年半務めた。コーチ退任後、24年1月に社会人野球に加盟したムラチグループに入社し、野球部の初期メンバーとして一からチームを作り上げた。現在は社業では営業マン、チームでは選手兼任チーフマネージャーとして首脳陣、後輩選手から頼られる存在として活躍した。6月に引退を決断し、ヘッドコーチに就任した。