■育成功労賞に元海星監督の湯浅和也さん 高校野球の育成と発展に尽くした指導者を表彰する「育成功労賞」(日本高校野球連盟、…
■育成功労賞に元海星監督の湯浅和也さん
高校野球の育成と発展に尽くした指導者を表彰する「育成功労賞」(日本高校野球連盟、朝日新聞社)に、三重県からは湯浅和也さん(65)が選ばれた。「全員野球」をモットーに海星の監督を20年間にわたって務め、夏の甲子園に6回、春も2回導いて、後進の育成にも手腕を発揮した。
湯浅さんは、海星の3年生だった1977年夏に外野手として全国選手権大会に出場した。日本体育大学を経て母校の教員となり、87年~2007年に監督を務めた。
監督として初めての甲子園出場は、1989年の夏。選手権三重大会決勝で、延長十四回の末に三重に逆転勝ち。甲子園でも2回勝ち、ベスト8に進んだ。
27歳で念願の監督になったものの、当初はチームをまとめられなかったという。「力を限界まで出し切る試練を」と思いついたのが、伊勢市の伊勢神宮まで、歩いて約70キロの初詣。1月4日の夜に学校を出発し、総勢25人が12時間かけて、伊勢神宮内宮まで歩いた。
「これを乗り切れば甲子園に行ける」との思いが選手らを一つにした。1年半後、夏の甲子園に届いた。「70キロの初詣」は17年間続いた。
忘れられないのは、96年夏の甲子園で早稲田実に逆転勝ちした試合だ。1点を追う九回裏無死一塁、2年生だった稲垣正史選手が逆転サヨナラ本塁打を放った。「送りバントか迷ったが、4番打者なので打たせたら、すごいことをやってくれた」。外野の芝をかすめるようにして左翼に入ったライナーの打球は、今も脳裏に焼きついている。その夏は甲子園で3勝してベスト8に入った。
ところが、稲垣選手は大学時代に難病を患い、23歳で帰らぬ人に。亡くなる半年前、「眼が治らないんです」と学校をたずねてくれた。「あの打球と、死を前にした彼の姿。つらさとセットで思い出す試合」と振り返る。
湯浅さんは、2006年には台湾遠征の県選抜チームの監督も務めたが、07年夏限りで海星の監督を退き、海星中学に設けた軟式野球部の監督に転進した。「6年計画で選手育成を」という学校側の方針もあったという。昨春に教員を退職し、今春には自ら中学生の軟式野球チームを立ち上げて指導している。
後進も育成し、海星を引き継いだ森下晃理(あきまさ)・現監督や、強豪の宇部鴻城(山口)の尾崎公彦監督は教え子だ。
言い続けてきたのは、「全員野球」と「感謝の心」だ。「支え合うことで、思わぬ力を発揮できる。今では過酷すぎるかもしれないが、70キロの初詣に自分も教えてもらった」という。
8回の甲子園のうち、ベスト8が3回。だが、湯浅さんが率いてベスト8になった1999年の選抜大会以降、海星は夏春とも甲子園出場を果たせていない。「支援体制にも課題がある。自分もまだまだ、中学生の育成に協力したい」(本井宏人)