6月上旬、午前3時。山口県周南市の無人のグラウンドに、ジャージー姿の中野泰造さん(70)が現れた。 この春から、社会人…
6月上旬、午前3時。山口県周南市の無人のグラウンドに、ジャージー姿の中野泰造さん(70)が現れた。
この春から、社会人野球のクラブチーム「三和テクノイノベーション」の監督を務めている。専用の練習場がなく、毎朝の練習に使うのは南陽工の施設。まだ暗いうちに一番乗りし、出勤前の選手を迎えるのが日課だ。
監督のサインを待たず、自分で考え、状況に応じたプレーをする――。それが、中野さんの指導法の核だ。「考えさせる野球」として磨き上げ、今や「ノーサイン野球」として知られる。
誕生のきっかけは、1986年夏の奈良大会だった。優勝候補の一角として桜井商(現県立商)を率い、3回戦で敗れた。その直後、すべての2年生部員が退部した。
「問題は生徒にある」
連日長時間の走り込みなどを課す「スパルタ式」で鍛えたチームの大半を失い、責任を選手に求めた。だが、心は晴れなかった。
迷いの中で芽生えたのは、これまでの指導法への疑問だった。
試合中に細かなサインを出す自分は、選手を将棋の駒のように操っていなかったか。そして、選手はそんな野球が楽しいのか――。思案の末に、中野さんは残った部員たちに語りかけた。
「自分で考え、仲間と相談し、決断して行動する。常識やセオリーを破っていく選手になろう」
「考えさせる野球」に向けて、実戦形式の練習を反復し、選手に質問を繰り返した。
「なぜ、バントの構えをした」
「なぜ、牽制(けんせい)しなかった」
練習を中断しては、打者や野手に問いかけた。
「思い込みで動くな」
「状況をみて、判断して動け」
臨機応変に対応する力を身につけていく選手の姿に手応えを感じた。
新たな指導法が結果につながるのは、奈良での教職を辞し、91年に創部した東亜大(山口県下関市)の初代監督となってからだった。
就任から3年半後、明治神宮大会に初出場し、初優勝。練習で培われた選手同士の共通認識にもとづく柔軟なプレーは、強豪校の意表を突いた。
「ノーサイン野球」。東亜大を計3度の日本一に導いた中野さんの指導法は、メディアからそう命名された。
ノーサイン野球は、各地の指導者や選手に影響を与え続けている。
南陽工監督の山崎康浩さん(63)は「野球人生を導いてくれた恩師」と中野さんを慕う。
下関中央工(現・下関工科)の監督として知り合い、まだ練習設備のなかった東亜大との合同練習に応じた。
当初は高校生相手の練習試合にも負けていた東亜大はやがて大学野球リーグで躍進。ノーサイン野球の魅力に引き込まれた山崎さんは、自らも実践するようになった。
「監督が『こうしろ』と言えば、選手は『はい』と答えるに決まっている。でも、それでは、選手の伸びしろを摘んでしまう気がする」
南陽工を率いて約20年。これまでに春夏5度の甲子園に導いたが、今も師の教えを守り、練習でも寮生活でもルールはほとんど作らない。
主将の斉郷優太選手(3年)は「やらされる野球でなく、自分たちでやる野球。最初は何をすればいいか分からなかった」と振り返り、こう話す。「今はとても楽しい。試合の流れを見ながら、相手が想定していない攻撃を仕掛けて成功した時はわくわくします」
沖縄県のエナジックスポーツ監督の神谷嘉宗さん(70)も東亜大の優勝に、「弱いチームが大物を食うのはこの野球だ」と感じたという。中野さんに学んだノーサイン野球を浸透させ、今春の選抜大会に創部3年目で初出場し、1勝を挙げた。
東亜大を退任後、中野さんが監督を務めた山口県防府市の高川学園。6年の在任中はかなわなかったが、その2年後に甲子園の切符をつかむ。いまや県内屈指の強豪だ。
自身の指導法が広まるなかでも、中野さんには変わらない思いがある。
「昔のスパルタ式は、今はできません。だからと言って、指導の手を緩めてはいけない。手を替え、品を替えて、限界を突破させていく。その一つがノーサイン野球なんです」
いまも、クラブチームの指導で、口癖のように声をかける。
「『はい』で済ますな。思うことを言葉にせよ」(三沢敦)
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なかの・たいぞう 1954年、広島県出身。広陵高(広島)と天理大(奈良)でプレーし、奈良県の公立高校で13年間監督を務めた。91年、東亜大(山口県下関市)に創部された野球部の監督に就任。94年、2003年、04年の明治神宮大会で3度の日本一を果たす。その後、天理大や高川学園高(防府市)の監督などを経て徳島県阿南市の「野球のまち推進課」に5年間勤務。各地で講演や野球指導を重ね、中国・深圳市との野球交流にも取り組む。今年3月、都市対抗野球出場を目標に発足した山口県周南市初の社会人クラブチーム「三和テクノイノベーション」の監督に就いた。