岩貞や梅野ら今の主力らとともにドラフト指名を受けた岩崎。この時はまだ線の細さが目に付く。(C)産経新聞社隣にいた友人から…

岩貞や梅野ら今の主力らとともにドラフト指名を受けた岩崎。この時はまだ線の細さが目に付く。(C)産経新聞社
隣にいた友人から知らされた急転直下のドラフト指名
“やり返す”マウンドで、節目の数字に到達した。
5月17日の広島戦で、阪神の岩崎優は、通算100セーブを達成。試合後、「早く投げたかったです」と漏らしたのは、王手をかけていた節目の数字を意識してのものではなかった。前日の16日、同点の9回から登板するも2失点してチームは敗戦。彼の言う「投げたかった」には、リベンジの思いが込められていた。
【動画】まさに「消える魔球」 阪神デュプランティエの奪三振シーン
筆者が思い出していたのは、数年前に左腕が発した言葉だった。先発から救援に転向して以来、日々チームの勝利を背負う過酷なポジションを担う中で胸に宿る「反骨心」は今まで以上に燃えたぎるようになった。
失点や救援失敗に終わった試合後は決まって「次、やり返せるように」と口にし、自宅や宿舎に帰ると日程表をチェック。「打たれたのがカードの3戦目だったら、次にそのチームといつ対戦するのかを確認してます」と“やり返す場面”をしっかりと思い浮かべた。失敗を糧に強くなり、100セーブを積み上げてきた。
100ホールド、100セーブは、左腕投手ではNPB史上初の快挙。しかし、自ら「自分も含めて誰も達成するとは思っていなかったと思う」と口にしたように、岩崎にとって、そもそもプロ入り自体が“想定外”だった。
プロスカウトからノーマークではなかったものの、国士舘大4年時には、社会人野球でのキャリア継続が選択肢の1つだった。
「夢がプロ野球選手なんて恥ずかしくて言えなかった」
だから、2013年のドラフト当日は指名がかかるとは思わず、寮の2段ベットに寝転がりながら大好きなゲームを楽しんでいた。阪神からの急転直下の6位指名は、スマホをチェックしていた隣の友人から知らされ、「人生で初めて頭を抱えた」。
指名後の記者会見でカメラマンからタテジマのユニホームを手渡され、囲まれたことのないマスコミの数を目にして、「もうやめたい。どうやって断ろうかな……」と本気で思っていた。
意を決して袖を通したものの、「3年で終わると思っていた」と短いプロ人生しかイメージできず、浮かんだ言葉は戦力外や引退。ひとまず「プロの練習はきついだろうから体力をつけないと」と選手寮で丼飯をひたすらかき込むことから岩崎の小さな挑戦は始まった。
ただ、今思えば、鉄腕の“土台”はここでできていた。食トレの成果で入寮からわずか1か月で、体重は8キロ増の90キロに到達。プロ12年目の今も変わらないどっしりとした身体は、大学時代に不安定な部分もあった制球の安定につながった。

いまや阪神に必要不可欠な存在となった。ベテランの域に達した岩崎は、若手投手を支える精神的支柱だ。(C)産経新聞社
プロでの転機は3年目。金本知憲監督の言葉だった
そして、岩崎には唯一無二の武器があった。
「このフォームがなければここまで来られなかったでしょうね」
ファンにはお馴染みと言える下半身をグッと沈み込ませる独特の投球フォームは天性のもので、後にプロの打者も苦戦する、浮き上がるように見える直球を生み出す原動力となった。
小学生の時に父・久志さんが独特の肘の使い方に着目して以降、いじらず、いじらせなかった。久志さんは阪神入団後もチーム関係者に「フォームだけはいじらないでください」と懇願。無垢なフォームのままだったからこそ、プロでの道を切り開いていけた。
無論、才能や能力にうぬぼれること無く地道な努力も続けてきた。試合のない月曜日には必ず甲子園を訪れ、アルプススタンドの階段登りをして身体に刺激を入れる。トレーニングの種類や方法も無数に存在するようになった中でも、岩崎は「何を選ぶか」ではなく「何を信じるか」に重きを置き、地味でも大切な練習に取り組んできた。
プロでの転機を挙げるとすれば、3年目の16年。当時の金本知憲監督に「もう先発に未練はないやろう」と中継ぎへの配置転換を通告された時だった。
「あのまま先発なら、今頃クビになっていたかもしれないし、トレードに出されたかもしれない。感謝です」
3年でクビを覚悟した男はそこから救援投手として一気に花が開いた。
昨年まで8年連続で40試合以上に登板。マウンドでのパフォーマンスだけでなく、若手時代に藤川球児(現監督)やOBの能見篤史ら先輩から授かった助言や戦況の読み方などを、今は後輩たちに伝えながら精神的支柱として君臨してブルペンをけん引している。
心身を削られるポジションで、今もずっと腕を振り続けられるのは、23年にリーグ優勝を経験したからでもある。「リーグ優勝、日本一と2度も胴上げ投手をさせてもらって。こんな幸せなことはない。みんなが喜んでくれる。それが一番嬉しかった」と語る通りだ。
プロ入りの知らせに頭を抱えて苦悩した大学生が、1年目から開幕ローテーションに入り、胴上げ投手も経験し、球界に名を残すリリーバーにまでなった。
「やっぱり最後、自分が抑えたらチームが勝つというのは9回を投げた人だけなので。そこのやりがいは感じる。誰も想像していないようなことをこれからもどんどん数字として積み重ねてやっていきたいです」
小さな決心と、地味でも続けていく努力が、誰も想像しない境地へ連れて行ってくれることを岩崎は身をもって知っている。だからこそ、まだ投げられる。もっと先に行けると信じている。
[取材・文:遠藤礼]
【関連記事】「木浪さんを僕は全く疑っていない」――失策に肩を落とす木浪聖也を支えた“利他の心” 阪神の超秀才助っ人に惹かれる理由
【関連記事】連夜の豪快弾も異質な「0」 シーズン42発の量産体制の阪神・佐藤輝明の規格外ぶりを示す“らしい”数字とは
【関連記事】阪神のルーキー伊原陵人はなぜ快投続く? アマ時代から成功を確信した元虎戦士が見た“強み”「キャッチャー次第でいろんな投球ができる」