「ミスタージャイアンツ」、そして「ミスタープロ野球」こと長嶋茂雄さんが亡くなった。野球という競技、あるいはスポーツという…
「ミスタージャイアンツ」、そして「ミスタープロ野球」こと長嶋茂雄さんが亡くなった。野球という競技、あるいはスポーツという枠を超えて、日本中に大きな影響を与えてきた人物だった。蹴球放浪家・後藤健生も影響を受けた。「プロ・スポーツとは何か」を教えてもらったのだ。
■「見るスポーツ」は野球と大相撲だけ
去る6月3日に、長嶋茂雄さんが亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。
長嶋さんは1936年生まれで僕よりも16歳年長で、僕が小学校に入学する1年前に立教大学を卒業して、読売巨人軍に入団しました。つまり、僕が野球というものを知った頃の、スーパースターでした。僕は子どもの頃、四角い顔をしていたので、周囲の大人たちから時々「長嶋に似ている」と言われたこともありました。
ですから、長嶋“選手”にはさまざまな思い出があります。その長嶋さんが亡くなったというニュースを聞いて、子ども時代のスポーツにかかわる思い出がいろいろ蘇ってきました。
僕の父親はスポーツ観戦が好きでテレビのスポーツ中継をよく見ていたので、僕もさまざまなスポーツを目にすることになりました。当時でも、サッカーやラグビーの中継は年に数回ではあっても存在したので、「そういうスポーツがある」ということは認識していましたが、本格的にサッカーに接したのは1964年の東京オリンピックのときでした。
それより前のスポーツにかかわる記憶は、ほとんど大相撲とプロ野球です。
はっきり言って、東京オリンピックより前の日本には、「見るスポーツ」としては相撲と野球(それにプロレス)以外、存在していなかったのです。
■国鉄の金田正一が「巨人軍相手」に投球!
いちばん最初の記憶は(自宅にテレビ受像機がやってくる前)、祖父がラジオで聞いていた大相撲でした。そして、テレビが見られるようになってからは、大相撲とプロ野球を見るようになりました。
大相撲ではラジオを聞きながら「星取表」を付けていましたし、プロ野球についてもいろいろ記録を付けていました。つまり、対象がサッカーに変わっただけで、僕は60年後の今も同じようなことをやっているわけです。
大相撲は、大人になるまで実際に国技館に行ったことはなかったのですが、プロ野球は小学生の頃から何度も球場に観戦に行っていました。
巨人の本拠地だった後楽園球場(現在の東京ドームの隣にあった球場)や神宮球場が多かったですが、東映フライヤーズが使っていた「駒沢球場」とか荒川区南千住にあった「東京スタジアム」(味の素スタジアムとは違います)といった、今はなくなってしまった野球場にも行ったことがあります。東京スタジアムは弱小球団の国鉄スワローズも使っていて、国鉄の金田正一が巨人軍相手に投げている姿を見たことがあります。
■名選手であると同時に「エンターテイナー」
さて、長嶋茂雄という選手はとにかくやることが派手で、劇場型の選手でした。
三振するにしても、フルスイングをしてヘルメットを吹っ飛ばすのが絵になるのです。
長嶋本人も意識して、わざと吹っ飛びやすい大き目のヘルメットを使っていたのです。
三塁手としての華麗なフィールディングも人気を集めましたが、これも簡単なゴロでもわざと派手なスローイングを見せたり、遊撃手に処理させればいいようなボールでもダッシュして補給して難しい体勢から送球することで観客にアピールしていたようです。
彼は名選手であると同時に、優れた「エンターテイナー」でもあるのです。しかも、そうした計算したプレーをしながらも、その天然系のキャラクターのおかげで“あざとさ”を感じさせないところが長嶋という人の人徳なのでしょう。
とにかく、いわゆる「キャラが立った」選手でした。そして、長嶋(と“求道者的な”王貞治)の存在が、日本の社会においてプロ野球というスポーツの地位を確立することにつながったことは間違いないでしょう。
そういえば、昔の大相撲やプロ野球のスターたちは、みんなキャラが立っていました。というか、さまざまなニックネームや形容句が付いていました。
相撲で覚えているのは「褐色の弾丸」や「人間起重機」です。前者は房錦という押し相撲でならした力士。後者は明武谷。吊りを得意とする力士なので、そう呼ばれていました。2人とも、大雑把に言えば長嶋と同じ世代の力士です。
野球でも、巨人の川上哲治は「打撃の神様」とか「赤バット」と呼ばれており、対抗して大下弘は「青バット」と呼ばれました。まあ、長嶋茂雄などは、その存在自体キャラが十分に立っているのでニックネームは必要なかったのでしょうが……。