史上最高と称されたサッカー・ライターが亡くなった。サッカージャーナリストの大住良之が、その足跡を辿る。■17歳で「英国特…
史上最高と称されたサッカー・ライターが亡くなった。サッカージャーナリストの大住良之が、その足跡を辿る。
■17歳で「英国特派員」に
戦争が終わって1949年、ブライアンが17歳のとき、一家はひと夏をイタリアのトスカナ地方の海浜保養地で過ごし、海岸で太陽を浴び、テニスを満喫した。旅の終わりに、一家はフィレンツェとローマを訪れた。そしてそのローマで、ブライアンは生涯を決める決断をするのである。
もちろんイタリア語などまったくできなかった。だがある日、ローマで有名なスポーツ紙である「コリエーレ・デロ・スポルト」の編集部を訪ね、仕事をしたいと申し出たのである。チャーターハウス校で、彼は「スポーツ」という雑誌にサッカーの記事を寄稿していた。彼の胸には、その記事の切り抜きのスクラップブックが抱えられていた。そして交渉は成功し、17歳のブライアンは「コリエーレ・デロ・スポルト」紙の英国特派員となったのである。
■大スターの「自伝」を執筆
帰国すると、ブライアンはロンドンに出て、「ロイター」通信社を訪ねた。彼の手元には、「コリエーレ・デロ・スポルト」紙の特派員の身分証があった。タイミング良く、「ロイター」はサッカーのコラムニストを探しているところだった。ブライアンは週に一度コラムを書くことになった。
学校に戻ると、彼はアーセナルの大スターであったクリフ・バスティンを訪ね、彼の伝記を書かせてほしいと頼んだ。バスティンは1929年から1947年までアーセナルでプレーし、左ウイングとして350試合に出場して150ゴールを記録した選手である。150ゴールは2006年にティエリ・アンリに破られるまでクラブ記録だった。聴覚に障害があったために兵役は免れたが、20代の終わりから30代のはじめというサッカー選手にとっての「黄金期」を戦争で失い、右ひざの故障もあって1947年に35歳で引退していた。
ブライアンはまだ18歳だった。しかしバスティンは了承し、翌1950年に『クリフ・バスティンの回想』として出版された。ただし本は「自伝」ということになっており、グランヴィルの名前はない。
■『ワールド・サッカー』創刊
ただ、残念ながら、ブライアンはチャーターハウス校のサッカーチームではレギュラーになれず、法律を学ぶために希望していたオックスフォード大学への奨学金も得ることができなかった。だが法律家への夢は捨てきることができなかった。チャーターハウス校を卒業すると、彼は他の大学へは進まず、ロンドンの法律事務所で働くことにした。
やがて彼はこの仕事がまったく自分に向いていないことを思い知る。結核にかかったこともあり、退職し、クリフ・バスティンの本の出版を機に父の援助を受けて執筆活動にまい進する。
そして1958年、『サンデー・タイムズ』紙の依頼を受けてスウェーデンで開催されたワールドカップを取材して記事を書き、以後は、『サンデー・タイムズ』のほか、『ザ・ピープル』紙、『ザ・タイムズ』紙などで健筆をふるい、1960年に『ワールド・サッカー』誌が創刊されるとその主要なライターにもなった。『サンデー・タイムズ』紙と『ワールド・サッカー』誌での執筆は、半世紀以上続いた。