史上最高と称されたサッカー・ライターが亡くなった。サッカージャーナリストの大住良之が、その足跡を辿る。■10年間で「5…
史上最高と称されたサッカー・ライターが亡くなった。サッカージャーナリストの大住良之が、その足跡を辿る。
■10年間で「5回」リーグ優勝
彼はアイルランドからロンドンに渡った歯科医の息子だった。フルネームは、ブライアン・レスター・グランヴィル。1931年9月24日にロンドンの北の郊外にあるヘンドンで生まれた。父ジョゼフはリトアニア系のユダヤ人であり、母フローレンスもロシアとポーランドをルーツとするユダヤ人の血を引いていた。欧州に反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れたころ、父ジョゼフは、「ゴールドバーグ」というユダヤ人そのものの名を改めることを決意、電話帳から古代ノルマン人の姓である「グランヴィル」を見つけ出して改姓した。
父ジョゼフはサッカーを愛し、アーセナルを熱愛した。ハーバート・チャップマン監督の下、アーセナルは1930年代に5回ものリーグ優勝を成し遂げ、黄金時代を築いていた。ブライアンが成長すると、ジョゼフはハイベリー・スタジアムによくブライアンを連れていった。グランヴィルが生涯アーセナル・ファンだったことはよく知られている。
■イタリア王者と「引き分け」るも…
もちろん、だからと言って、グランヴィルがアーセナルに甘かったわけではない。1991年、プレシーズンのミニトーナメントの1回戦(準決勝)でアーセナルがパナシナイコス(ギリシャ)に1-0で辛勝した試合では、彼はアーセナルを酷評した。
数日後、「決勝戦」の相手はイタリア・チャンピオンのサンプドリアだった。「プレミアリーグ」が生まれる前夜のことである。当時は、世界のスターはイタリアのセリエAに集まっており、「フーリガン」のために荒れ果てていたイングランドリーグとの力量差は歴然と見られていた。しかしアーセナルは奮闘し、1-1の引き分けに持ち込んだ。PK戦で敗れたものの、アーセナルのジョージ・グラハム監督は「今日は評価してもらえるだろう」と記者会見にやってきた。
だが、いつものように会見室の最前列中央に陣取ったグランヴィルの質問は、やはり厳しかった。最終的にその試合のレポートでも、「アーセナルにはサッカーの質が欠けている」と書いた。厳しい質問の後に、グランヴィルはグラハムに「新シーズンの成功を祈ります」と丁寧に語った。グラハムは「そうだね、では今シーズンは脚本の質を高めるよう努力しよう、ブライアン」。そう言って、彼は席を立った。精いっぱいの強がりだった。
グラハムの手が会見室から出るドアのノブにかかったとき、「心配ないよ、ジョージ」と、グランヴィルが声を上げた。「何かいいことが見つかったら、それについて書くよ」。声優、俳優としても活動したことがあるグランヴィウの声はよく通った。
■「俺はキックする、ゴールを決める」
さて、少年時代の話に戻る。ブライアンは法律家を志望していた。そのための有力なコースとして、ロンドン市内の私立学校UCSハムステッド校に進む予定だった。しかし第二次世界大戦が始まり、ロンドンがドイツの空爆にさらされることを危惧した父親は、ロンドンの南西、60キロも離れた田舎町の寄宿学校「チャーターハウス校」にブライアンを進学させた。そして同時に自宅もそのさらに南、英国海峡に面したボグナー・レジスという田舎町に移した。ジョゼフはそこから毎日ロンドンの診療所に通ったのである。
ブライアンが「チャーターハウス校」への進学を受け入れたのは、そこがサッカーをプレーする学校だったからである。事実、チャーターハウスは、「サッカー揺籃の地」のひとつだった。寄宿舎生活は陰鬱で彼を苦しめたが、土曜日のたびに父が訪れ、ときにはアーセナルの試合に連れていってくれたのが大きな慰めとなった。
父ジョゼフは手紙もよくくれた。それには、彼がつくった詩が添えられていることもあった。
「俺はキックする、ゴールを決める。
おお、ボールが飛んでいく。
キーパーはジャンプする。だがその動きは遅すぎる…」