サッカー王国ブラジルの代表監督に、チャンピオンリーグ5回優勝など、指導者として史上最高の実績を誇る名将が就任。2002年の日韓ワールドカップ以来、優勝から遠ざかっているブラジル代表が、カルロ・アンチェロッティを新指揮官として迎えたのだ。2…

 サッカー王国ブラジルの代表監督に、チャンピオンリーグ5回優勝など、指導者として史上最高の実績を誇る名将が就任。2002年の日韓ワールドカップ以来、優勝から遠ざかっているブラジル代表が、カルロ・アンチェロッティを新指揮官として迎えたのだ。2つの「世界最高」の出合いは、何をもたらすのか。その行方を、サッカージャーナリストの大住良之が大検証!

■急転直下の「正式発表」

 この1週間の最大のニュースは、カルロ・アンチェロッティのブラジル代表監督就任ではなかったか。

 4月からさまざまな報道があったものの、一時は「破談」しかけていた話だった。しかし急転直下、5月12日にブラジル・サッカー協会(CBF)が正式発表した。

 現在スペインのレアル・マドリードで指揮を執るイタリア人監督のアンチェロッティは、まだスペイン・リーグの試合を残している。最後の試合は、25日(日)のレアル・ソシエダ戦(ホーム)である。

 CBFとの契約期間のスタートは5月26日。25日の試合が終わると、アンチェロッティはすぐにリオデジャネイロに飛び、この26日には、6月に行われるワールドカップ南米予選の2試合(5日=対エクアドル=アウェー、10日=対ウルグアイ=ホーム)のメンバーを発表することになっている。契約は来年のワールドカップまでである。

 アンチェロッティの後任には、ドイツのバイエル・レバクーゼンの監督を退任するシャビ・アロンソの監督就任が確実視されている。シャビ・アロンソはレアルのクラブOBである。

■実際は「過去に3人」

 さて、アンチェロッティはさまざまなニュースで「ブラジル代表初めての外国人監督」と伝えられているが、それは正確ではない。実際には過去に3人の「外国人監督」がおり、アンチェロッティは4人目ということになる。

 ブラジルのサッカーを統括する組織(現在のCBF)は1914年に誕生し、正式な「ブラジル代表」の歴史も、この年の7月21日にリオデジャネイロで行われたエクセター・シティ(イングランドのクラブチーム)との対戦で始まる。

 それから11年後、1925年の12月にブエノスアイレス(アルゼンチン)で行われた南米選手権の4試合で指揮を執ったのが、初の「外国人監督」、ウルグアイ人のラモン・プラテロだった。彼は1919年からブラジルで監督をしており、フルミネンセ、フラメンゴ、バスコダガマで指揮を執って実績を挙げていた。4試合の結果は、アルゼンチンに0-2、パラグアイに5-2、アルゼンチンに1-4、そしてパラグアイに3-1と、2勝2敗だった。南米のサッカーがまだアマチュアの時代である。

 2人目は、ジョルジ・ゴメス・デリマ。ブラジルでは「ジョレカ」の愛称で親しまれたポルトガル人、初の「欧州人監督」である。といっても単独で指揮を執ったわけではなかった。1944年5月にリオデジャネイロとサンパウロで行われたウルグアイとの親善試合2試合でブラジル人のフラビオ・コスタとの「共同監督」という立場だった。

 ジョレカはサッカーの監督になる前には、体育教師の資格を持って記者、ラジオ・コメンテーター、レフェリーなどの仕事をしていた変わり種だったが、サンパウロFCの監督として成功を収め、3日間だけながらブラジル代表監督の職にあった。リオで行われた第1戦(リオの選手が中心だった)をフラビオ・コスタが指揮し、「ジョレカ」はサンパウロでの第2戦の責任を持った。この後も長く続くブラジル・サッカーの国内問題の象徴のような監督人事だったことがわかる。

■「欧州人」としては

 そして3人目が、フィルポ・ヌニェスである。フルネームはネルソン・エルネスト・フィルポ・ヌニェス。アルゼンチン人で、1965年の9月にベロオリゾンテで行われたウルグアイ戦(3-0の勝利)で1試合だけ指揮を執った。この人だけが、ブラジルが「世界チャンピオン」になってからの「外国人監督」である。

 1958年(スウェーデン開催)と1962年(チリ開催)のワールドカップで連覇を飾り、1年後に迫った1966年大会(イングランド開催)での3連覇が有力視されていたブラジル代表は、世界の強豪から試合を申し込まれていた。そして6月から7月にかけて、ブラジル国内で3試合、アウェーで4試合という「7連戦」を強行した。ホームでベルギーに5-0、西ドイツに2-0、アルゼンチンに0-0、以下アウェーでアルジェリアに3-0、ポルトガルに0-0、スウェーデンに2-1、そしてソ連に3-0と、5勝2分けの成績だった。

 欧州から戻って2か月後、9月7日のウルグアイとの親善試合は、ベロオリゾンテの「ミネイロン」スタジアムの落成を祝うものだったが、代表選手たちは6月と7月の7試合で疲れきっており、CBFはパルメイラスを「ブラジル代表」としてプレーさせることを決めた。そのパルメイラスの監督がフィリポ・ヌニェスだったのである。

 当時の正式なブラジル代表監督はビセンテ・フェオラ。1958年ワールドカップでブラジルに初優勝をもたらした名将である。1962年チリ大会はアイモレ・モレイラ監督で2連勝を果たしたものの、CBFは1964年にフェオラを呼び戻し、1966年イングランド大会での3連覇を託した。しかし、フェオラはこのウルグアイ戦だけはフィリポ・ヌニェスに任せることにしたのである。試合は3-0の勝利だった。

 というわけで、アンチェロッティはブラジル代表史上4人目の「外国人監督」で、「欧州人」としては2人目ということになる。

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