世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ【第13回】サミュエル・エトー(カメルーン) サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。世界を魅了した…

世界に魔法をかけたフットボール・ヒーローズ
【第13回】サミュエル・エトー(カメルーン)

 サッカーシーンには突如として、たったひとつのプレーでファンの心を鷲掴みにする選手が現れる。選ばれし者にしかできない「魔法をかけた」瞬間だ。世界を魅了した古今東西のフットボール・ヒーローたちを、『ワールドサッカーダイジェスト』初代編集長の粕谷秀樹氏が紹介する。

 第13回はバルセロナやインテルで一時代を築いたFWサミュエル・エトーを取り上げたい。史上最多4度のアフリカ年間最優秀選手に輝き、チャンピオンズリーグを3度も制した「カメルーンの英雄」がひとたび加速すれば、もう誰も止められなかった。

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サミュエル・エトー/1981年3月10日生まれ、カメルーン・ドゥアラ出身

 photo by AFLO

 誰だってタイミングを見誤ることがある。遅かったのか、早すぎたのか。我を引っ込めて社員のまま満足すべきだったのか、フリーランスを選択して正解だったのか......。四半世紀ほど前、筆者も葛藤した。

 ラウル・ゴンサレス、プレドラグ・ミヤトヴィッチ、フェルナンド・モリエンテス、ダボル・シュケル......。1997年のレアル・マドリードは、前線に豪華絢爛なタレントを揃えていた。「銀河系の夜明け」と言って差し支えないメンバーである。

 カメルーンのカジ・スポーツ・アカデミーからやって来たばかりのサミュエル・エトーは、ローン移籍を選択するしかなかった。「マドリードで必ずエースストライカーになる」という熱い想いを胸に秘め、来る日も来る日も汗を流した。

 しかし、レガネスでもエスパニョールでも芽が出ず、2000年にマジョルカへ完全移籍。この人事が分岐点になるのだから、人生とはわからないものだ。

 2002-03シーズンは公式戦36試合・19得点、続く2003-04シーズンも36試合・18得点。2シーズン連続の好ましいデータは実力の証(あかし)であり、当然のようにいくつかのオファーが舞い込んだ。

【エトーの選択は大正解だった】

「人生は皮肉なものだよね」

 のちにエトーが振り返ったのは、バルセロナからのオファーだった。レアル・マドリードでエースになると誓った男が怨敵のユニフォームを着るとは、人生ってやつは奥が深い。

 バルセロナ所属の5シーズンは、公式戦159試合・111得点。1シーズンの平均は約22得点。文句なしの実績である。2005-06シーズンはリーグ得点王に輝き、カタルーニャの名門に数多くのタイトルをもたらしている。

 チームのピークがやってきたのは2008-09シーズン。ロナウジーニョからメッシへ、エースの座がスムーズに移動し、ティエリ・アンリとエトーを加えた3トップは対戦相手にとって脅威でしかなかった。しかも、シャビ・エルナンデスとアンドレス・イニエスタがゲームを創り、アンカーにヤヤ・トゥーレという、どこにも隙のない"反則技"の布陣だ。

 この時代のバルサは依然として「世界最強にして最高」と言われ、のちのサッカー界に多大な影響を及ぼしている。メッシの魔法とイニエスタ、シャビの頭脳は酒のあてとしても味わい深い。

 だが、エトーのスピードも忘れてはならない。一瞬の加速がすさまじく、マーカーが図る間合いをいとも簡単に無効化する。

 イニエスタとシャビの技量にケチをつけるつもりは毛頭ないが、パスが若干ズレたとしてもエトーなら追いつく。ほかの選手であればラインを割ったり、相手に渡っていたりしたボールを、エトーがビッグチャンスに変えたケースも決して少なくなかった。

 超一流をズラリと揃えたバルサは、2008-09シーズンにラ・リーガ、コパ・デル・レイ、チャンピオンズリーグ(以下CL)の三冠に輝いた。マドリードを離れたエトーの選択は、結果的に大正解だった。

 2009年の夏、エトーはジョゼップ・グアルディオラ監督(当時)との不和もあり、インテルに移籍する。

 新しいボスはジョゼ・モウリーニョだった。ペップとは対極に位置する名将で、「そんなにポゼッションがほしいのならくれてやる。その代わり(勝ち点)3ポイントは俺たちがいただく」と公言する現実主義者だ。

【恩師モウリーニョに全幅の信頼】

「ラ・リーガほどの自由は、セリエAにはない。まして監督はモウリーニョだ。守備戦術が徹底される。エトーは苦しむに違いない」

 下馬評は芳しくなかった。

 たしかにラ・リーガのほうが自由度は高い。しかし、バルセロナは相手ボールになった際のリアクションが理詰めで、単騎でサイドに追い込む時も、複数で囲い込むと時も、周囲の連係がとれていた。ポゼッションとカウンターの違いこそあれ、ペップもモウリーニョもアタッカーに第一ディフェンスを要求していた。

 あえて相違点を挙げるのなら、バルセロナでプレーしていた当時に見え隠れしたエゴイズムが、次第に消えていったことだろうか。

 かつてのエトーなら強引にシュートを打つシーンで絶妙のラストパス。守りを怠らず、周りを生かす。それでいて切り返した瞬間に鋭い一撃を放ち、GKのポジションを見極めたループも狙う。

 エトーは「アンストッパブル」なストライカーになった。

「彼の考え方、物言いはストレートだから、好感が持てる。監督のなかにはまわりくどい奴もいるからね。ハーフタイムに戦術をアドバイスされても、俺たち選手は興奮しているから聞いちゃいないんだよ。モウリーニョは素敵な監督さ」

 インテルで師事した恩師への感謝を、エトーはたびたび口にしている。2009-10シーズンはセリエA、コッパ・イタリア、CLのトリプリッタ(イタリア語で「ハットトリック」の意味)だ。エトー個人では前年のバルセロナに続く三冠である。想い出はバラ色だ。

 だからこそモウリーニョの求めに従い、エトーはチェルシーへの移籍を決意したのではないだろうか。2013-14シーズン、ロシアのアンジ・マハチカラからロンドンに馳せ参じた。

 フェルナンド・トーレス、デンバ・バ、ロメル・ルカクといったアタッカーに不満を抱いていたモウリーニョが、エトーに白羽の矢を立てたのは当然だったのかもしれない。

 ただ、残念ながら遅きに失していた。32歳になったエトーは衰えを隠せず、プレミアリーグのゲーム強度に苦悶した。26試合・9得点。期待どおりの活躍ではなかった。エバートンに移籍した2014-15シーズンも16試合・3得点と、プレミアリーグのチャレンジはわずか2年間で終焉を迎えている。

【プレミアリーグに早く行っていれば...】

 それにしても、なぜエトーはインテルからロシアのアンジ・マハチカラに移籍したのだろうか。オーナーのスレイマン・ケリモフが財力を活かし、大型補強を図っていた時期とはいえ、何かと怪しい人物だった。

 あの時、チェルシーでなくてもプレミアリーグのクラブを選択していれば......。

 DFの存在を消去したかのようなスピード、信じられない角度から放たれるシュート、そして献身性など、ストライカーが求められる能力を装備したエトーなら、世界最高峰の舞台でも100パーセント通用した。

 3年連続アフリカ最優秀選手、バルセロナとインテルで三冠など、数多くの栄光に浴したエトーは、2019年9月に引退した。息子のエティエンヌ・エトー(22歳)はラージョ・バジェカーノのBチームでプレーしている。今シーズンはすでに20ゴール以上を挙げ(スペイン5部リーグだが)、良血を受け継いだようだ。

いや、父の壁は分厚く、高い。なにしろ、あのサミュエル・エトーである。ちょっとやそっとじゃ超えられない偉大なアタッカーだ。

 嗚呼、返すがえすも全盛期の彼をプレミアリーグで見たかった。