ホークス“福岡移転初V”の胴上げ投手・ペドラザ氏は55歳 ソフトバンクが球団を買収してから20周年を迎えたホークス。前身のダイエー時代に本拠地を大阪から福岡へ移し、1999年には“移転後初優勝”を飾った。歓喜に包まれた福岡で、胴上げ投手の栄…
ホークス“福岡移転初V”の胴上げ投手・ペドラザ氏は55歳
ソフトバンクが球団を買収してから20周年を迎えたホークス。前身のダイエー時代に本拠地を大阪から福岡へ移し、1999年には“移転後初優勝”を飾った。歓喜に包まれた福岡で、胴上げ投手の栄誉に浴したのが、守護神のロドニー・ペドラザ氏だった。ホークス在籍4年間で通算117セーブをマークし、最優秀救援投手のタイトルを2度獲得。日本で成功を収めた秘訣はどこにあったのか。そして今は、どうしているのだろうか。
現在は、米テキサス州に在住。Full-Countのオンライン取材に「所有する350エーカー(約141万6450平方メートル)の農場を酪農家の友人に貸して、生計を立てているよ」と人懐こい笑顔を浮かべる。350エーカーといえば、みずほPayPayドーム(建築面積7万平方メートル)の約20個分にあたる広大さだ。
「妻と一緒に午前4時45分に起き、6時半に孫娘を学校へ送りに行き、その後ジムに行ってトレーニングをする。家の掃除とか、農場の樹木や牧草の手入れとか、やることは結構あるよ。午後9時には寝ているね」。白髪の55歳となったが、健康的な生活ぶりが伝わってくる。
米国でメジャー経験のなかったペドラザ氏は来日1年目の1999年、王貞治監督(現ソフトバンク球団会長兼特別チームアドバイザー)率いるダイエーのクローザーを務め、48試合3勝1敗27セーブ、防御率1.98をマーク。26年ぶりのリーグ優勝に貢献した。セ・リーグ覇者の中日との日本シリーズでも、3試合(計3回1/3)を無失点に抑え(2セーブ)、チームを南海時代の1964年以来35年ぶりの日本一に導いている。翌2000年には51試合3勝4敗35セーブで初めて最優秀救援投手のタイトルを獲得。1999年のレギュラーシーズン、日本シリーズ、2000年のレギュラーシーズンと3度に渡って優勝決定の瞬間をマウンド上で迎えた。
ダイエー入団の経緯をこう振り返る。
「僕は、1991年から1993年までダイエーで投手としてプレーしたリー・タネルと、同じテキサス州出身で旧知の仲だった。1998年オフに、彼がダイエーの球団関係者から『誰か日本で活躍できそうな選手はいないか?』と聞かれ、僕の名前を出してくれた。僕はその球団関係者の前で投球を披露し、『日本でプレーすることに興味はある?』と聞かれて、『もちろんだ』と答えた。日本でプレーすることになれば素晴らしい経験になると思った。日本の野球については以前から、タネルに聞いていたからね」
来日後リリーバー転向「自分が初セーブを挙げたことに気づいていなかった」
とはいえ、すんなり入団が決まったわけではない。「前年の1998年にダイエーでプレーしたブライアン・ウィリアムズ(投手)が残留するかどうか微妙だった。彼がMLB球団と契約を結んだお陰で、僕にオファーが回ってきた」と説明する。
当初は先発要員として期待されたが、来日後に当時の尾花高夫投手コーチ、城島健司捕手(現ソフトバンクCBO=チーフベースボールオフィサー)によって、リリーバーとしての適性を見出された。「僕はプロ入り後ずっと先発でやっていたけど、当時、(ダイエーの)先発投手はみんな大活躍していた。5人の先発投手が本当にいい投球をしていてね。『先発の枠に入るのは難しい』と(チームから)言われて、『試合に出られるチャンスをもらえる限り、(先発投手としてプレーできなくても)構わないよ』という感じだったね」と語り、この配置転換で異国での野球人生が開けたのだった。
初セーブは1999年5月8日の西武戦(西武ドーム=現ベルーナドーム)。8回から2イニングを無失点に抑えた。当時について「セーブを記録していたことに僕は気づいていなかった。僕のことを(周りが)祝福してくれた」と回顧する。その時に守護神として「やっていけそうか?」と問われるも、抑えとしての経験が不足していたことから自信があったわけではないという。しかし、ストライクを投げ積極的に攻める投球で「『行けるところまでやってみるよ。僕にできるのはそれくらいだ』という感じだった。当時の最速は92マイル(約148キロ)くらいだったと思う」と目を細める。
変わらぬ鷹への愛「今もホークスの試合はチェックするようにしている」
多くの外国人選手と同じく、ペドラザ氏も来日当初は“日本の常識”に戸惑った。米国と違って試合前の練習時間が長く、試合のない日にも球場に集まって練習するケースも多かった。それでも「僕はできる限り、日本人っぽくやりたいと思っていた。外国人選手の中には、日本流を拒み、米国でのやり方を貫く人もいると聞いていたけれど、僕はチームの一員なのだとみんなに思われたかったし、のけ者になりたくなかった。(米国と日本の違いを理解する)コンディショニングコーチから『君はやらなくていいよ』と言われることも多かったけれど、全てとはいかないまでも、なるべくみんなと同じメニューをこなすようにしていた」と強調する。
目の前の環境に溶け込もうとする姿勢が、躍進を支えた。「僕は来日にあたって、先入観を持たず、オープンな気持ちで臨もうと自分に言い聞かせていた。米国とは文化的にも、野球自体も少し違うだろうなと思っていたけれど、うまくやり遂げたいという気持ちが強かった」。
来日3年目の2001年は54試合4勝34セーブで、2年連続でタイトルを獲得。2002年に34試合21セーブとやや成績を落とすと、巨人に移籍して翌2003年の1年間を過ごし、その年限りで33歳にして現役を引退した。
「日本で過ごした5年間は、間違いなく気に入っていたよ。文化を体験して、チームメート、ファンと触れ合うことができて、とても楽しい時間だった」と懐かしむ。「今もホークスの試合のスコアはほとんど毎日チェックするようにしている。選手個々については状況を把握してるわけではないけれどね……」といたずらっぽく笑う。ダイエーを退団してから20年以上が過ぎてもなお、“鷹愛”は健在だ。(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)