サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニ…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、世界中が約半世紀にわたって背中を追い続けてきた「モダン・サッカーの父」、ヨハン・クライフを見出した「サッカー史上最高の監督」について。
■成長とともに「戦術」も進化
そうしてトレーニングを進め、オランダ・リーグで勝利を積み重ねるにつれ、ミケルスに新しいアイデアが浮かび上がった。選手の成長とチームの進歩は、コーチの頭脳を刺激する。「プレッシング・フットボール」である。
ミケルスの狙いどおりに規律が貫かれ、チームが機能するようになれば、自然に試合を「支配」する形になる。そうしたチームであれば、ボールを失ったときには自陣に引くのではなく、中盤で積極的にボールを奪いに行かなければならない。中盤を狭めるために、当然、DFラインは浅くなり、オフサイドトラップも多用することになる。
ミケルスはトレーニングの方法を変え、このスタイルをアヤックスに植えつけた。肉体的に鍛え上げて、ハードワークをこなせるようにしなければならない。同時に、精神的にも成熟した選手を並べ、さらには1人か2人の優秀なリーダーが必要だった。幸いなことに、アヤックスには、20代の前半にさしかかっていたクライフがいた。
そしてクライフのさらなる成熟によって、ピッチ上で選手たちが次々とポジションを替え、役割を変えていくことが可能になった。若い頃は純粋なアタッカーだったクライフは、20代のなかばを迎え、時に中盤に引き、思いがけないところに正確無比なパスを通すようになった。そして次の瞬間には、最前線に出て決定的な得点を決めるのだ。
こうして、「圧迫し」「追い詰め」「狩り」そして「動く」、「トータル・フットボール」が完成する。
■12年間「代表歴のない」選手を
1971年、ミケルスはアヤックスを欧州チャンピオンズカップ優勝に導き、FCバルセロナの監督に就任する。1973年にはチャンピオンズカップで3連覇を遂げたアヤックスからクライフがバルセロナに移籍し、ミケルスは、その監督契約のまま、1974年春、西ドイツで開催されるワールドカップのわずか2か月前にオランダ代表チームの監督に就任する。
オランダにとって40年ぶり2回目のワールドカップ出場。クライフと彼の元のチームメートであるアヤックスの選手を中心に予選を勝ち抜いたが、オランダサッカー協会内のごたごたや、「2人監督制」というゆがんだ形のチーム事情、そして選手と協会との対立など、難しい問題を抱えていた。
ミケルスは全権限を自分に集中させ、思うままのチームをつくった。予選のヒーローのひとりだったGKのヤン・ファンベベレン(PSVアイントホーフェン)が負傷で欠場が決まると、チームのスタイルである「トータル・フットボール」に最も適した選手として、誰も注目していなかったヤン・ヨングブルートを正GKに据えた。
34歳という年齢もさることながら、1962年にオランダ代表にデビューしながらその後12年間も代表歴がなかったこと、FCアムステルダムという小クラブの選手であることなど、ヨングブルートの抜てきは驚きの目で見られたが、ペナルティーエリアを大きく出てプレーするスタイルは、「トータル・フットボール」の理想的なGKだった。
予選で活躍した2人のセンターバックの負傷欠場も、大きな課題だった。ミケルスは、フェイエノールトで右サイドバックとしてプレーしていたビム・レイスベルヘンと、アヤックスでは中盤の中心選手だったアーリー・ハーンを守備の中央に並べた。すべては、「トータル・フットボール」のスタイルからの選択だった。
■「果たした」14年前のリベンジ
最後に残ったのは、出場ボーナスをめぐる選手と協会の対立だった。選手と協会の対立は「オランダ病」とでも言うようなもので、これがゆえにオランダを買わない専門家も多かった。深刻な問題だったが、ミケルスは「来たくない選手は来なくてよい」と言い切り、選手たちの不満を断ち切った。
西ドイツでは、1次リーグをウルグアイに2-0、スウェーデンに0-0、ブルガリアに4-1と首位で突破し、2次リーグではアルゼンチンに4-0、東ドイツに2-0、そしてブラジルに2-0と3戦全勝で決勝進出を決めた。とくに連覇と4回目の優勝を目指したブラジル戦は、スピードに乗った攻めで圧倒、ヨハン・ニースケンスとクライフのゴールで完勝の内容だった。
そして世界中が「トータル・フットボール」のとりこになった。
西ドイツとの決勝戦では、開始わずか1分のPKで先制という異常な状況の中、オランダらしい「甘さ」が出て前半のうちに逆転を許し、後半は精神的なバランスが取れないまま1-2で敗れたが、それはけっしてそれまでの6試合で見せたサッカーの価値を低めるものではなかった。
その後ミケルスはアメリカのロサンゼルス・アズテックス、西ドイツの1FCケルンなどの監督を務め、1988年、西ドイツで開催される欧州選手権に挑むオランダ代表の監督という役割を引き受けた。そして準決勝でドイツに2-1で逆転勝ちして「14年前のリベンジ」を果たし、決勝戦ではFWマルコ・ファンバステンの見事なシュートなどでソ連に2-0で快勝、オランダに初の国際的なメジャータイトルをもたらした。
この大会後には西ドイツのバイエル・レバークーゼンの監督に就任、1992年の欧州選手権のときに64歳でオランダ代表を率いた後、監督業から退いた。そして2005年3月3日、2回目の心臓手術のベルギーのアールストの病院で亡くなった。77歳だった。
41ものタイトルを取ったファーガソンと比較すると、ミケルスが手にしたタイトルは両手で数えられるほどのものに過ぎない。しかし、プレッシング・スタイル、浅いDFライン、流動的なポジショニング、そしてそれを支えるボールなしの動きと豊富な運動量は、そのまま今日のサッカーの主流をなすものだ。
ミケルスがまさに「ゼロ」から築き上げて1971年に完成し、1974年に世界に示した「トータル・フットボール」。それから半世紀を過ぎても、色あせるどころか、今も「目標」にされている。リヌス・ミケルスはまちがいなく「モダン・サッカーの父」であり、彼を「サッカー史上最高の監督」と言わない理由など、どこにもないように思うのである。