世界の国々でサッカーを観戦することは、生き残る術を身につけることでもある。蹴球放浪家・後藤健生が長年のサッカー放浪で学…
世界の国々でサッカーを観戦することは、生き残る術を身につけることでもある。蹴球放浪家・後藤健生が長年のサッカー放浪で学んだのは「ビールの重要性」だ。世界中で愛されるビールを通じて知った、訪れた国々の「衝撃の真実」!
■神が与えたもうた「奇跡の飲み物」
放浪家にとってビールは必須のアイテムです。海外では安全な水が手に入らないことも多いのですが、そんなときに最も安心な飲み物がビールというわけです。
世界のあらゆる国にあまねく存在し、アルコール濃度も高くないので泥酔する心配もなし。そして、美味くて安い! つまり、ビールは「神が与えたもうた奇跡の飲み物」というわけです。
ですから、海外に行くときにはビアー、ビエラ、セルベッサ、ピーヴォ、〓(※口偏に卑)酒(ピジュ)、メッチュ(麦酒)……と、ビールを意味する単語だけは、必ず覚えてから出かけるというわけです。
しかし、「日本の常識は世界の非常識」という警句は、ここにも当てはまります。
僕が初めて中国に行ったのは1979年秋のことでした。日本では第2回ワールドユース・トーナメントが開かれ、ディエゴ・マラドーナのアルゼンチンが優勝。中国では、「建国の父」毛沢東が亡くなってから3年。「文化大革命」の混乱がようやく収拾され、復権したトウ(※登におおざと)小平が「改革開放」を打ち出した翌年でした。中国はまだ貧しく、国民の多くは人民服を着用。自動車は貴重品で、人々はみな自転車に乗っていた時代です。
まず、上海を訪問。その後、浙江省や江蘇省のいくつかの都市を観光してから、最後に北京を訪れ、北京から帰国しました。
通用しなかった「日本の常識」とは、「冷たいビール」のことでした。ビールはキンキンに冷やして飲むというのが当時の「日本の常識」でしたが、中国では「冷たいものは体に毒」と思われているので、ビールも冷やさないのが普通でした。「冰的〓酒(ピジュ)」(冷たいビール)と注文しても「没有」(メイヨー=ないよ)と“冷たく”言われるのがオチでした(資本主義化する前の中国の服務員=店員たちの態度や言葉は本当に冷たいものでした)。
日程の最後に北京に到着。文化大革命が終わって日本人を含む外国人が中国を訪れることも増え、首都の北京は外国人慣れしていました。そう、北京だけには「冰的〓酒(ピジュ)」が存在したのです。
■旅の疲れを癒す「必需品」を注文
北朝鮮の首都、平壌(ピョンヤン)を訪れたのは1985年の4月。メキシコ・ワールドカップ1次予選の取材でした。
この国を訪れることは、今以上に難しい時代でした。約10人の記者団も、森孝慈監督以下の選手団と同一行動です。まず、中国の北京の首都空港から北朝鮮大使館に直行してビザをもらって北京で1泊。翌日、北京の首都空港から中国民航のアントノフ24型機で平壌の順安空港に向かいました(帰りは朝鮮民航のアントノフでした)。
そして、宿舎の「平壌旅館」に入り(選手団も同じホテルです)、レストランで夕食ということになりました。
旅の疲れを癒すにはビールは必需品です。さっそく、ビールを注文すると「平壌麦酒(ピョンヤンメッチュ)が出てきました。大ぶりの緑色の瓶で、見た目はごく普通でした。
■冷たいビールを「チビチビ」飲むも…
何気なく瓶のラベルを眺めていると、そこにはなんと(具体的な数字は忘れてしまいましたが)「アルコール10数%」という数字があったのです。
日本のビールのアルコールは5、6%。ワインは、赤のフルボディでも13%強。日本酒が14%から15%です。
そんな強い平壌麦酒をガブガブ飲んでいたら、すぐに酔っぱらってしまいます。なにしろ、ここは国交のない北朝鮮。到着早々に酔っぱらってハメをはずすわけにはいきません。
記者団の間で「注意しながら、ゆっくり飲みましょう」という確認が行われました。
そして、冷たいビールをチビチビ飲んでいたのですが、アルコールはいっこうに効いてきません。まるっきり酔っぱらわないのです……。
記者団としての共通見解がまとまりました。
「この国の掲げる数字は信用できない」