サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、世界中が約半世紀にわたって背中を追い続けてきた「モダン・サッカーの父」、ヨハン・クライフを見出し…
サッカーは無数のディテール(詳細)であふれている。サッカージャーナリスト大住良之による、重箱の隅をつつくような「超マニアックコラム」。今回は、世界中が約半世紀にわたって背中を追い続けてきた「モダン・サッカーの父」、ヨハン・クライフを見出した「サッカー史上最高の監督」について。
■162年の歴史で「ベスト」は?
1863年にイングランドで誕生し、その世紀末には世界中に広まって人類最大のスポーツとなったサッカー。162年の歴史で最高の監督は誰だろう。そんなことを考えたこともあるファンは少なくないに違いない。
さまざまなメディアが、これまで「ベスト監督」を選んできたが、英国系のメディアを中心に、多くのメディアがサー・アレックス・ファーガソンを挙げている。
1941年12月31日、スコットランドのグラスゴー生まれのファーガソンは、1986年から2013年まで27シーズンもの間(!)マンチェスター・ユナイテッドの監督を務め、プレミアリリーグ優勝13回、その前(1992年まで)の「フットボールリーグ1部」での優勝7回を加えると実に27シーズンで20回も「イングランド・チャンピオン」に輝いた。
その他にも、UEFAチャンピオンズリーグ優勝2回を誇り、スコットランドのクラブチーム監督時代を含めると、実に49ものタイトルを獲得している。世界のプロ監督中最多の2131試合(2155試合というデータもある)で指揮を執り、1239勝489分け403敗。チームを勝たせることが監督としての仕事とすれば、文句なくナンバーワンだろう。現在83歳。サッカーの現場を離れて12年近くになるが、今も健在である。
しかし、ファーガソンや彼の指揮下のマンチェスター・ユナイテッドがどんなサッカーをしようとしていたのか、あまり明確なイメージはない。彼の時代には、エリック・カントナ(フランス)、デビッド・ベッカム(イングランド)、ライアン・ギグス(ウェールズ)、クリスティアーノ・ロナウド(ポルトガル)などのスター選手が躍動し、人気も絶大だった。ファーガソンは厳しい規律でチームを指揮し、そのときどきの選手の力を最大限に生かすサッカーでタイトルを積み重ねた。
■大きな転換期となった「6試合」
さて、世界の多くのメディアがファーガソンを「史上最高の監督」に挙げる中、リヌス・ミケルスをナンバーワンと認定したのが、2019年の『フランス・フットボール』誌である。ミケルスは自分がプレーヤーとしても活躍したアムステルダムのクラブ・アヤックスを育て、1974年ワールドカップではアヤックスを中心としたオランダ代表を率いてセンセーションを巻き起こした監督だ。
タイトルの数はファーガソンには遠く及ばない。しかし、1974年ワールドカップの1次リーグ3試合、2次リーグ3試合の合計6試合で見せたサッカーは、サッカー史の大きな転換期となった(西ドイツとの決勝戦では、なぜかその力を発揮しきれなかった)。
アヤックスをオランダ・チャンピオンに育て、欧州チャンピオンズカップ(現在のUEFAチャンピオンズリーグ)でも優勝させた。そして、スペインのFCバルセロナや西ドイツの1FCケルンでもタイトルを獲得した。1988年には、オランダ代表を欧州選手権優勝に導いた。しかし、1974年、6月15日にハノーファーで始まり、7月3日のドルトムントまで続いた19日間のオランダ代表の6試合こそ、サッカー史に不滅のものだった。そして、そのチームを率いたリヌス・ミケルスという監督の名は永遠のものとなった。
■12歳の年に「アヤックス」入り
では、リヌス・ミケルスとは、どんな人物だったのか。
フルネームは「マリヌス・ヤコブス・ヘンドリクス・ミケルス」。「リヌス」はファーストネームの「愛称」である。1928年2月9日、アムステルダムの「オリンピアウェグ」という通りで生まれた。彼が生まれてすぐ、この年の7月から8月にかけて開催されたアムステルダム・オリンピックの主会場となった「オリンピック・スタジアム」のすぐそばの地区である。
第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の不安定な時期。翌年にはニューヨークの株式大暴落を契機に世界的な経済大恐慌が起こり、やがてドイツではナチスが躍進して、さらに世界を不安定な状態に置いていた。しかし、リヌスの父ピートは安定した収入を持ち、1937年、リヌスの9歳の誕生日には、サッカーシューズとアヤックスのユニフォームをプレゼントしたという。
大柄で運動能力に優れていたリヌスは、水泳やバスケットなどさまざまなスポーツを好んでいたが、父ピートはアムステルダムの強豪クラブ、アヤックスの役員であったヨープ・ケーラーと親交があり、アヤックスの熱心なファンだった。その影響でリヌスはサッカーにのめり込むようになり、1940年、12歳を迎えた年にアヤックスの少年チームに入った。