サポーターという言葉は、Jリーグの誕生とともに日本中に広がった。ワールドカップ優勝を目指すサッカー日本代表の森保一監督…

 サポーターという言葉は、Jリーグの誕生とともに日本中に広がった。ワールドカップ優勝を目指すサッカー日本代表の森保一監督は、日本全体でのサポートを訴えている。蹴球放浪家・後藤健生が目撃した、サッカーが「国民的関心事」になったことで実現した「大きな夢」!

■カタール大会優勝で「400万人」集結

 そのアルゼンチンが、地元開催の大会で初優勝を飾ったのは1978年大会でした。

 僕は、アルゼンチン共和国の首都ブエノスアイレスと、ブエノスアイレス州の州都ラプラタの中間のキルメスというところに居候していました(キルメスは、アルゼンチン代表のスポンサーにもなっていたビール会社の本拠地)。目の前は国道です。

 アルゼンチン代表は1次リーグでイタリアに敗れて2位通過だったため、2次リーグはブエノスアイレスではなく、サンタフェ州のロサリオで戦うことになりました。そして、ロサリオでの試合がアルゼンチンの勝利で終了すると、国道は大混雑になります。

 ブエノスアイレス市内、7月9日通りとコリエンテス通りが交差するレパブリカ広場にあるオベリスク(ブエノスアイレス創設400周年を記念して1936年に建てられた高さ67.5メートルの石柱)の前に集まって勝利を祝うためです。

 そのため、人々が各地からブエノスアイレスに向かって集まってくるのです(カタール大会優勝のときも、選手の帰国を歓迎してオベリスク周辺には約400万人が集まったそうです)。

■南米のパリで舞い続けた「紙吹雪」

 セサール・ルイス・メノッティ監督率いるアルゼンチン代表は、ロサリオでの2次リーグを1位で突破し、リーベルの本拠地エスタディオ・モヌメンタルに戻って決勝を戦い、延長戦の末にオランダを3対1で破ってワールドカップ初優勝を決めました。

 もちろん、夜通しのお祝いが始まりました。当時、アルゼンチンを支配していた軍事政権は、1週間を休日にしました。選手の国外移籍を禁止するなど、代表チーム強化のために協力。そして、国民の人気取りのためにワールドカップ優勝を最大限に利用したのです。

 翌日、僕もブエノスアイレスの都心に出かけてみました。

 アルゼンチン・ワールドカップというと、試合前にスタンドからまかれる大量の紙吹雪が有名です(ピッチは紙吹雪で真っ白になっています)。決勝翌日のブエノスアイレス市内でも大量の紙吹雪が舞い続けました。

 ブエノスアイレス市は、アルゼンチンが経済的に裕福だった1920年代から30年代に建設された高層ビルが整然と建ち並んでいて「南米のパリ」とも呼ばれています。そのビルの上から、人々が紙吹雪をまき続けているのです。オフィスの書類などの紙類を窓からまくのです。

 中には、書類の束をヒモで束ねたまま放り出す人がいて、大きな紙の束がドサッと落ちてくることもありますが、頭にでも当たったら一大事です。

■決勝進出で「渋谷」が大騒ぎに!

 とにかく、ブエノスアイレス市内は終日、とんでもない騒ぎが続いていました。僕は決勝戦の翌々日(火曜日)パラグアイの首都アスンシオンに向かったのですが、その後も1週間ほど大騒ぎが続いたということです。

 森保一監督の言う「国民的関心事」というのが、どんなものなのか。あのときのブエノスアイレスこそがその答えのように思えます。

 かつて、日本でも一度だけサッカーの代表チームの勝敗が国民的関心事になり、集団ヒステリー状態になったことがありました。1997年のフランス・ワールドカップ、アジア最終予選のときです。

 はたして、来年のワールドカップで日本代表が決勝進出を果たしたりしたら、渋谷のスクランブル交差点などで、あのような大騒ぎになるのでしょうか?

 地元開催の大会で優勝した後の大騒ぎは、ほかにも経験しました。1998年のフランス大会のときもそうでした。1978年大会と同じく開催国の初優勝だったので、騒ぎが一層すごくなったのでしょう。シャンゼリゼ通りは明け方近くまで自由に歩けないほどの人出が続きました(21世紀になってからは「開催国優勝」はありません)。

 1978年のブエノスアイレスとまではいかなくても、日本もあのときのシャンゼリゼくらいの騒ぎになってくれるといいのですが……。

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