上田二朗氏は1973年に287回1/3を投げて22勝…体重は7~8キロ減少した 元阪神右腕・上田二朗氏(野球評論家)にとって1973年は忘れられないシーズンだ。左腕・江夏豊投手と9月23日の広島とのダブルヘッダー(広島)で“同日20勝到達”…
上田二朗氏は1973年に287回1/3を投げて22勝…体重は7~8キロ減少した
元阪神右腕・上田二朗氏(野球評論家)にとって1973年は忘れられないシーズンだ。左腕・江夏豊投手と9月23日の広島とのダブルヘッダー(広島)で“同日20勝到達”を達成するなど、22勝を挙げて大活躍したのはもちろんだし、阪神が優勝へのマジックナンバー「1」を点灯させながら、最後の最後で10月20日の中日戦(中日球場)、同22日の巨人戦(甲子園)と連敗し、巨人に9連覇を許したことも……。「あの時は“なぜ?”って思いましたけどね」と当時の心境も吐露した。
1973年、大卒プロ4年目の上田氏はシーズン前半だけで15勝をマーク。そのうち12勝が3完封を含む完投勝利とすさまじい勢いで勝ち星を量産した。オールスターゲームにも監督推薦で2度目の出場を果たし、第2戦(7月22日、大阪)に先発して2回1失点、第3戦(7月24日、平和台)は2番手で1回無失点。さらに後半戦は江夏とともに先発、リリーフにフル回転して投げ続けた。
「あの年は(最終的に5完封を含む)20完投しましたからね。(287回1/3で)200イニングも超えました。優勝争いもしていたので、江夏と私は大車輪で行きましたね。その時に江夏とも話したんですよ。“優勝するためにはリリーフもやらなきゃいかんし、お互いが先発した時もベンチに入らないといかんなぁ”ってね。コーチからも“勝ちゲームの時は後半2イニングくらい行く可能性がある”と言われていましたしね」
体力的にきついものはあったという。「7キロか8キロは痩せました。食っても、食っても身にならない。疲れも取れなくて……。遠征に行ってもどこも出て行けなかった。マッサージだけ。でもチームにトレーナーは1人しかいないので、自分で関東だったらこの人、広島だったらこの人って感じでお願いして(宿舎に)来てもらっていましたね」。そんな状態で勝ち星を積み重ねた。後半は7勝と前半に比べればペースダウンしたものの、22勝を挙げた。
中でも印象深いのは、ダブルヘッダーで行われた9月23日の広島戦(広島)の第1試合で20勝に到達したこと。さらに第2試合で江夏も20勝をマークしたことだ。「同じ日に20勝できたのは私の自慢ですよ。だってそう簡単なことではないでしょ」。同一球団20勝2人もそれ以降、NPBでは出ていないのだから、まさしくミラクルな大勲章。江夏は307イニングを投げ、24勝で最多勝を獲得。「2人で46勝ですからね」と上田氏は感慨深げに話した。
ただ残念だったのは、優勝を逃したこと。阪神は残り2試合でマジック1としながら10月20日の中日戦、同22日の巨人戦に連敗して終わったが、とりわけ、ドラゴンズキラーで知られた上田氏が、その中日戦に先発しなかったことには「自分でもなぜ、と思いました」と言う。「最初は中日戦に先発すると言われていた。それが名古屋に移動してから変わったんです。コーチから『江夏が先発することになった』と聞いた。それで(阪神・金田正泰)監督のところに確認に行ったんです」。
中日戦先発予定が直前で変更…指揮官は「俺の責任で江夏を行かせる」
この年も上田氏は中日に8勝1敗と抜群の相性を誇っていた。一方の江夏は中日に3勝2敗だったが、勝ったのはいずれも甲子園球場で、中日球場では0勝1敗。前年の1972年も0勝2敗と苦手にしていた。それだけに理由が知りたかった。「チームにとっても、ものすごい大事なポイントでしょ。それには私自身が納得しないといけないと思ったので、監督に『どうしてですか』と聞きました。投手コーチに『監督に聞いていいですか』と言って了承を得た上でね」。
これは上田氏だけの疑問点ではなかった。「他の選手もコーチも99.9%が同じ答え。『ここで上田が行かないのは不自然だろう。優勝したいんだったら上田だろう』ってね。私が先発して最後は江夏がリリーフして胴上げ投手になればいい。だけど江夏が先発して、私がリリーフで胴上げ投手になったら江夏はすねますよ。こんなことを言ったら生意気かもしれないですけど、私が行く方が勝つ確率も高かったと思います。だから監督にも聞いたんですけどね」。
そんな上田氏に対して、金田監督は毅然と答えたという。「『俺の責任で江夏を行かせることにした』と言われました。そう言われたら、もう何も言えるわけがありません。最終的には監督が決めることですからね。監督が責任を取ると言えば、どうのこうの言える筋合いではない。監督は絶対ですからね」。結果、江夏が先発した中日戦は2-4で敗戦。上田氏が先発した巨人戦は0-9で敗れて優勝を逃した。
「中日戦の時のメンバー交換でコーチが『えっ、(先発は)上田じゃないの』と言っていたのを私はベンチ入りしていたので、見ていました。そんな感じだったんですけどね。『勝っていたら登板もあるぞ』と言われてブルペンでピッチングもしていました。もちろん最後の巨人戦に(1回0/3を4失点降板で)負けたのも悔しかったけど、その前の名古屋で負けたことがもっと悔しかったですね。本当に申し訳ないですけど、巨人戦はチームの勢いもなかったですもんね」
甲子園で阪神が優勝を逃した直後、スタンドからファンがグラウンドになだれ込む大暴動が起きるなど、後味の悪さまで残った。46登板、22勝14敗、防御率2.23の成績を残した上田氏にとっても、それまでいいことが多かったのに、最後に無念の思いがあふれる結果にもなった。「あの時、阪神が優勝していたら、また違う流れになっていたでしょうね。もしかしたら阪神の時代が来ていたかもしれませんね」。
それでも思い直すように、こう付け加えた。「(10月20日の中日先発だった)星野仙(一)さんにも、のちに『あの時は何で』なんて言われたけど、まぁ、今さら言ってもしゃあないんですよ。監督が決めたこと。最終的には僕らも納得したんですからね」。いろいろあった1973年シーズン、そのすべてが伝説になっている。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)