上田二朗氏が明かす思い出…村山監督から「来い!」 1969年阪神ドラフト1位でNPB通算92勝を挙げた上田二朗氏(野球評論家)は、プロ3年目の1972年5月9日の大洋戦(甲子園)で“リリーフ完封勝利”を成し遂げた。初回無死一、三塁で先発の若…

上田二朗氏が明かす思い出…村山監督から「来い!」

 1969年阪神ドラフト1位でNPB通算92勝を挙げた上田二朗氏(野球評論家)は、プロ3年目の1972年5月9日の大洋戦(甲子園)で“リリーフ完封勝利”を成し遂げた。初回無死一、三塁で先発の若生智男投手に負傷アクシデントが発生。2番手で登板し、9回まで1点も許さずに投げ切ったが、その舞台裏はてんやわんやだった。「“ちょっと待ってよぉ”って感じでした」と苦笑しながら、当時を振り返った。

 上田氏は東海大からドラフト1位で入団し、ルーキーイヤーの1970年は27登板、9勝8敗、防御率3.00の成績を残した。しかし、2年目の1971年は16登板、1勝6敗、防御率4.42と苦しんだ。「その年は何か体調がずっと悪かった。はじめにどんどん打ち込まれて、何をやっていいのかもわからない1年だったですね」。開幕2戦目の4月11日の中日戦(甲子園)に先発も、4失点完投で敗戦投手。3-1の8回に3点を失っての逆転負けだった。

「そこでいろいろ考えたと思うんですけどね。反省したなかでも結果が出なかったですね」。5登板目の5月11日の巨人戦(後楽園)に、被安打3の2失点完投でシーズン1勝目を挙げたが、この年はそれ以降、白星をつかめなかった。流れが悪かった。「メンタル面もあったんですかねぇ。2年目のジンクスとかは関係なく、自分自身が油断していたと思う」。オフには村山実監督兼投手が住むマンションに引っ越すことになった。

「村山さんに『来い!』って言われたんです。『(自身が住む)マンションには杉田(由嗣)トレーナーもいるし、何かあった時には杉田にちゃんとしてもらえるやろ』って。それもありかなと思ってね。ただの一度も杉田にマッサージしてもらったことはなかったですけどね」。ドラフトの時、上田氏の獲得を猛プッシュしたのが村山監督という“縁”もあったが、この引っ越しで指揮官との関係はさらに深まった。

「いろんなことを教わって、とてもありがたかった。でも、逆にしんどいこともあったんですよ。甲子園球場に行く時は村山さんの運転する車の助手席に座って、目茶苦茶プレッシャーの中で20分間過ごしたような気がします。遠征の時も一緒にタクシーに乗って行こうと言ってくれるのはうれしいんですけど、例えば新大阪でタクシーを降りる時、他の選手たちの目がものすごく厳しかったですし……」

 村山監督もそれはわかっていたようだ。「選手の前では私に対して厳しかったですよ。その分、厳しかったです。でも人がいないところではものすごくかわいがってくれたんです。まぁ、村山さんにしてみれば、球団を押し切って指名した選手ですからね、私は。何としても成績を残させなければいけないということもあったと思います」。上田氏もその期待に応えて、3年目の1972年は巻き返した。リリーフ中心ながら35登板、9勝7敗、防御率3.53と結果を出した。

忘れられぬ白星…リリーフで成し遂げた完封勝利

 その年に成し遂げたのが“リリーフ完封勝利”だった。5月9日の大洋戦(甲子園)、初回無死一塁から中前打を許した先発の若生は三塁へバックアップに走った。そこでアクシデントが起きた。「アキレス腱断裂。『プチッ』という音も聞こえました」。続投は無理。無死一、三塁となったところで2番手として指名されたのが上田氏だった。「まだスパイクも履いていなかった。誰かが用意しなければいけないというのはわかっていたけど……」。

 バタバタの“急きょ登板”だった。「キャッチボールを5、6球やってキャッチャーに座ってもらって。まだ10球くらいの時に、場内アナウンスが『若生に代わりましてピッチャー上田』って言ったんですよ。ちょっと待ってよって感じだったけど、もうしょうがない。マウンドに行くと審判が『上田君、アクシデントだからナンボ投げても大丈夫だから、待っとくから』と言ってくれたんですけどね」。

 投球練習を続けるうちにスタンドの雰囲気が変わってきたという。「最初はね(スタンドのファンも)『上田、頑張れよ』って言ってくれていたんですよ。でも、投げているうちに『上田! お前、いつまで待たすんや! はよせんか! お前は』になったんです。審判も『まだか、まだか』って言い出して……」。

 結局、不完全な状態での登板となったが、気力でゼロに封じた。「その回が終わってもベンチには戻らず(一塁側の)サイドで相当投げた。もうこれで大丈夫と思えるところまでね。それで(最後まで)抑えることができたんです」。

 初回に絶体絶命の場面でリリーフし、1-0で勝利。完投勝利にはならないが、上田氏には完封勝利が記録された。「私は大洋戦もけっこう自信があったんですよ。そういうところも良かったなぁって感じでした。打つ方でも1点は(6回に)私が三塁打を打って藤井(栄治)さんの犠飛によるもの。その印象も強いですね」。登板までのドタバタぶりも含めて、忘れられない1勝だった。

 寂しい出来事もあった。村山監督兼投手が、1972年シーズン途中から投手に専念し、オフの11月には現役引退を発表したことだ。上田氏は翌1973年に22勝をマークする。「私がもう1年早くもっと頑張れていたら、村山さんが、あの時期にやめることはなかったのではないか、と思いました。村山さんは目茶苦茶、自分の体をいじめ倒しておられましたから。私はそういうのも知っていたのでね」と亡き恩師を思い出しながらしみじみと話した。(山口真司 / Shinji Yamaguchi)