選抜高校野球大会第6日の23日、日本航空石川の応援席でじっとグラウンドを見つめる男性がいた。1972年夏の甲子園に出場した及川誠さん(70)だ。視線の先には試合前のシートノックできびきびとした動きを見せる背番号14の及川蓮志(れんじ…

選抜高校野球大会第6日の23日、日本航空石川の応援席でじっとグラウンドを見つめる男性がいた。1972年夏の甲子園に出場した及川誠さん(70)だ。視線の先には試合前のシートノックできびきびとした動きを見せる背番号14の及川蓮志(れんじ)主将(3年)。能登半島地震、能登豪雨を乗り越えて2年連続で晴れ舞台に立った孫の姿に「頼もしくなってきた」と目を細めた。
誠さんは宮古水産(岩手)の三塁手として第54回全国高校野球選手権大会に出場。日本航空石川の対戦相手の東海大札幌と同じ、北海道のチームの苫小牧工に1回戦で0―5で敗れた。「打てない3番打者でね」と当時を振り返りながら、「雪辱してくれるとうれしい」と願った。
高校卒業後は地元で消防士になった。2011年3月11日の東日本大震災発生時は岩手県宮古市の北隣の同県岩泉町の消防署長だった。宮古市内の自宅や家族は難を逃れたが、「被災地はひどく、悲惨な状況だった。あの当時の状況を考えれば今、青空の下で高校野球を観戦しているのが信じられないくらい」と球場内を見渡した。
誠さんの影響もあって野球を始めた及川主将。高校進学にあたって選んだのが、宮古市を離れて石川県輪島市の日本航空石川に進むことだった。近くに住んでいた誠さんは「車で10時間も11時間もかかるようなところだが、悔いが残らないようにやればいい」と背中を押した。
だが、24年元日に能登半島地震が発生し、野球部も一時、山梨県内や東京都青梅市に避難して活動。9月には能登半島北部を豪雨が襲い、野球部員は秋季大会期間中にボランティアで泥かきなどにあたった。
当時は幼くて、「東日本大震災の記憶はない」という及川主将。この1年あまり、地震や豪雨に翻弄(ほんろう)される面もあったが、「甲子園出場も含めて他の高校生にはできない経験をさせてもらっている。今後の人生に役立つはず」と前向きだ。
この日、内野手兼投手の及川主将に出番はなかったが、伝令などに立ちナインを鼓舞し続けた。6―7で惜しくも敗れ、祖父も孫も「悔しい」と口をそろえた。
輪島市の寮など学校施設で地震による被害があることが確認され、野球部は再び青梅市に拠点を移す。及川主将は「練習環境が変わることに不安はあるが、やれることを精いっぱいやって夏に甲子園に帰ってきたい」と誓った。【山口敬人】