春のセンバツの開会式直後に行なわれた二松学舎大付(東京)と柳ヶ浦(大分)との一戦は、両軍の先発投手の好投で締まったゲームになった。1対1で迎えた6回裏、続く7回裏に二松学舎が加点。9回に3対2まで追い上げられたものの、そのまま逃げ切った。…

 春のセンバツの開会式直後に行なわれた二松学舎大付(東京)と柳ヶ浦(大分)との一戦は、両軍の先発投手の好投で締まったゲームになった。1対1で迎えた6回裏、続く7回裏に二松学舎が加点。9回に3対2まで追い上げられたものの、そのまま逃げ切った。

 この10年、甲子園常連校となった二松学舎にとって、センバツ勝利は43年ぶり。現在指揮をとる市原勝人監督が当時のエースだった。


開幕試合となった柳ヶ浦戦に勝利した二松学舎・市原勝人監督

  photo by Sankei Visual

【大ちゃんフィーバーの始まり】

 それより少し前、1980年に時計を戻してみよう。

 1980年夏の甲子園、優勝候補の北陽との1回戦に臨む早稲田実業のマウンドには、背番号11をつけた1年生投手が立っていた。早稲田実業はその春のセンバツで準優勝した帝京を下して甲子園までたどりついたものの、全国に名を知られる選手はひとりもいなかった。

 その1年生投手、荒木大輔は当時をこう振り返っている。

「僕たちは強くないというのが全員の共通認識でした。北陽は強打で大阪を勝ち抜いたチーム。僕が1年生ピッチャーだということもあって、おそらく相当な自信を持っていたと思う」

 しかし、1回表に1点を先取した早実は3回に3点を追加し、5回と9回にも1点ずつ奪った。2時間9分の試合は、終わってみれば6対0で早実の圧勝、荒木はチーム打率3割7分4厘を誇る強打の北陽打線に1安打しか許さなかった。

 荒木が言う。

「北陽が優勝候補だということも意識していませんでした。試合前に荷物をまとめて宿舎を出て、目の前の試合のことだけを考えた。僕は、甲子園で勝てたことがただうれしくて、記者の数が多いのを見て『甲子園はこんなにすごいんだな』と感じていました。大阪代表に勝つと、こんなに注目されるんだなと。でも、僕たちのまわりだけ特別だったんですね。甲子園を出てからそれに気づきました。あの試合が終わった瞬間に『世界が変わった』と感じました」

 その大会で勝ち上がった早稲田実業は決勝で愛甲猛がいる横浜に敗れた。しかし、「甲子園のアイドル」が降臨したことによって、テレビ、新聞など多くのメディアが群がり、女子高生をはじめとする女性ファンが甲子園に大挙するようになった。

 ここが2年以上続く「大ちゃんフィーバー」の始まりだった。その後4大会連続して、荒木と早稲田実業は甲子園に出続けた。

【目標は早実より先に負けないこと】

 荒木と同学年の東京の球児たちは「打倒・早稲田実業」を目指したが、そのなかのひとつが二松学舎だった。

 市原監督が当時をこう振り返る。

「荒木大輔との初対戦は、1年生の夏の東東京大会の決勝戦。早実の先発投手が大輔で、僕は途中から代打で出ました。中学を出たばかりの僕からすれば、あれだけ落差があってブレーキの鋭いカーブを投げるピッチャーは見たことがなかった。だから『カーブのいいピッチャーだな』というのが第一印象」

 好投手であることを認めながらも、その夏の大ブレークを予想していなかった。

「甲子園に行けなかった僕たちは夏休みの間、静岡県で合宿をしていました。きつい練習をしたり強豪チームと練習試合をしたりしている間、大輔のいる早実はずっと勝ち続けていました。もちろん、決勝まで無失点の好投を続ける大輔もすごかったんですが、同じ1年生の小沢章一も活躍していたから、『一度も甲子園に行けないかも......』と思ったものです」

 1980年秋の東京大会で、二松学舎は準決勝まで駒を進めた。

「僕らは神宮第二球場で修徳と戦っていて、7回まで勝っていたんですが、他球場で試合をしていた早実が勝ったという場内アナウンスが流れた瞬間、先発投手の僕は降板させられました。次の早実戦のために温存しようと監督が考えたからだと思います。でも、次のピッチャーが打たれて同点に......またマウンドに上がった僕が打たれてサヨナラ負け。その時から、『早実に勝ちたい、やっつけたい』という気持ちが強くなりました」

 その翌年、秋の東京大会決勝戦で早稲田実業と二松学舎が対戦した。9回ツーアウトまでリードしていた二松学舎だったが、逆転負けを喫してしまった。「打倒・早実」は果たせなかったが、東京からセンバツに2校が選ばれ、甲子園への出場が決まった。

 その時の心境を市原はこう語っている。

「僕たちの頭のなかにあったのは、甲子園で勝つことではありませんでした。目標は『早実より先に負けないこと』。1980年春のセンバツで帝京が準優勝していたこともあって、甲子園を少し舐めていたような部分がありました。『東京で勝ち上がったチームなら甲子園でも上位にいけるだろう』と思っていました」

【選抜決勝でPL学園に大敗】

 二松学舎のエースは甲子園のマウンドで躍動した。初戦の長野戦で6安打完封勝利。鹿児島商工、郡山、中京など強豪を下して決勝に進んだ。PL学園に2対15で敗れたものの、見事な準優勝だった。

「荒木のいた早実は日本一にはなれませんでした。でも、彼らが東京のレベルを引き上げてくれたことは間違いないですね。東京の大会での早実は本当に強かったですから。荒木は手も足も出ないようなすごいボールを投げるピッチャーではありませんし、野手もいい選手は揃っていたけれど、圧倒されるほどではない。野球選手としてそれほどすごいわけじゃない。でも、なぜか勝てない。あのユニフォームを着て、球場で『紺碧の空』が流れると、違う選手になる」

 あれから半世紀近い時間が過ぎ、この春、市原は還暦を迎えた。

 柳ヶ浦との試合後、43年ぶりのセンバツ勝利の喜びをかみしめるようにこう語った。

「あれ以来の勝利ですか。43年前のセンバツを思い出すと、簡単に勝ったような気がします。スイスイ勝ち上がれたような(笑)。監督さんはそうじゃなかったんでしょうけど、そんなにてこずった記憶はありませんね。

 でも、監督の立場になって戦ってみると、ひとつ勝つことは本当に大変だなと思います。甲子園に出てくるようなチームはどこも粘っこく戦ってきます。だからここまでたどりついたんでしょう。だから簡単ではありません」

 市原監督にはセンバツ決勝戦の悔しさが残っているという。

「あの時、決勝戦でPL学園に2対15という大差で負けたんです。野手たちは決勝で大敗しても『準優勝だ』と思ったかもしれませんが、ピッチャーだった私はそういう感情にはならなかった。おそらく監督もそうだったでしょうね。決勝での負け方にはインパクトがありました。あの時の悔しさが今も残っています。だから、今も高校野球に関わっているのかもしれません」

 二松学舎は3月23日、花巻東(岩手)と対戦する。市原監督はこの大会で、17歳の時の悔しさを晴らすことができるだろうか。